宮城県山元町の海岸線の津波による変化
(小湾がいくつかできていた)
NHKの津波のアイカーブで見たら山元町の海岸線がえぐられて小さな湾にっていた
松原があったがここも全部消失した
そしてこのように小さな湾になった、地形を変えてしまった驚きである
相馬地域でも磯部でも今の六号線からは離れていても広い湾になったことには驚いた
山元町の被害も大きかった、ここでは仙台へ通勤する人が多かった
新しい住宅地が駅前とかにあった、それも全部流された
そして海岸線の変化が激しかったのである
今はこういう地形はなく埋め立てられて防波堤ができているだろう
でも原初の地形にもどったのかとも見る
湾になっていて砂浜があればそこから小舟でも出しやすいとなる
そこで何か魚とか貝とかをとって縄文人が暮らしていたのかとなる
現実に伝説は当時の生活を物語っている
鹿狼山に手長明神(てながみょうじん)と いう手がとても長い神様が住んでいて、貝が大好物だったとか。長い手をぐいっと新地の海に伸ばして貝を拾っては食べていたそう。その貝殻をポイポイと捨ててできあがったのが新地貝塚だったという伝説です。
縄文時代は深く陸地に海が入り込んでいた、だからこういう地形もありえた
ただ鹿島地区ではもっと縄文海進で奥に海がはいりこんでいた
でも何かこの地形は原初にもどった地形なのとかとみる
そこに砂浜があり丸木舟を浮かべれば内湾で魚もとれたとなるからだ
ともかく津波による地形の変化は驚きだった、それは自然の驚異だった
海岸線にいくつもの沼ができたのもそうである
だからこそとにかく沼とつく地名が日本には多い、沼だらけなのである
この地形の変化でも小湾ができてそこに砂浜ができて周りに木が生えたりして自然状態にもどったら景観としてはいいなとイメージした
どうしてもこの辺は湾がないから入江がないから殺風景になっていたからである
湾が入江ができれば小舟でもそこに浮かべやすいとかなる
湾ができるとそこは人間的営みに適したものになる
新地の伝説があるようにこうした湾があってそこで貝をとって縄文人は暮らしていたのである、何しろ奥まで海が入り込んでいたからそこは内湾になり魚でもとれたとなる
例えば南相馬市の鹿島区の江垂(えたり)でも六号線を津波が越えたようにもっと奥の方まで海が縄文時代から入り込んでいた
それが失われたとき忘れられていたのである
現実に魚の骨が桜田山の下から発見されているからだ
魚を食べていたし鹿も食べていた、海の幸があった、だから食生活も貧しいとは言えなかったともなる
ともかくこれだけの変化には驚嘆した、自然は海岸線は変化しやすいのである
それは海の浸食を受けるからそうなる、もともと八沢浦は本当に津波で奥まで柚木の方まで海になったが江戸時代は入江であり船も入っていたのである
それが明治以降開拓されて田んぼになったのである
あんなに奥まで海になったということの驚いたがもともとそこは海だったのである
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