2019年02月06日

南相馬市原町区の大谷(おおがい)村の由来は (栃窪に大谷の姓の人は移動したのか?)


南相馬市原町区の大谷(おおがい)村の由来は

(栃窪に大谷の姓の人は移動したのか?)

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福島県南相馬市の地名だけで「谷」が付く地名が21か所あります。
その内、「はんがい(半谷)」を含めた「がい」と、関東・東北で大方読まれている「や」が拮抗しています。
この場合の「かい/がい」読みは、「狭間/皆/甲斐/貝(かい)」や「峡/交/開/改/垣(がい)」と相関する意味があるようです。

1.「がい」が付く…11か所

まめがい(大豆谷)、うるがい(潤谷)、みみがい(耳谷)、みずがい(水谷)、はんがい(半谷)、ふじがい(藤谷)、おおがい(大谷)、みずがいさく(水谷迫)、かろうがい(家老谷)、つるがい(鶴谷)、つつみがい(堤谷)
2.「や」が付く…10か所
おや(小谷)、いちのや(市ノ谷)、こやつ(小谷津)、やちか(谷地加)、つしまやち(対馬谷地)、こつしまやち(小対馬谷地)、とよごやち(豊後谷地)、みやち(見谷地)、かなやさく(金谷迫)、ひるやち(昼谷地)

熊谷の場合は、もともと「くま(熊)+がい/がえ(谷)」であったものが、時代が下って関東・東北で主流の「や」読みが混じりだし、少なくとも明治6年の熊谷県において、
その後の鉄道駅など地名が異分析呼称として、「くま(熊)+が(格助詞の連体格用法)+や(谷)」となっていったと思われます。


これもなんかわかりにくいけど地形とかその土地が最初人が入らな自然状態をさしているのだろう、たいがいそういうのが多いからである
薔薇坂という地名は八木沢峠の入り口であり名も薔薇なのか?
それは茨(いばら)のたとだった、茨城(いばらき)もそうである
最初の原子の自然状態を地名にしている、薔薇をあてたことによりわかりにくくなったのである、だから漢字を当てているからそれから類推すると地名は間違いやすいから注意すべきなのである

ではなぜ南相馬市地域にガイとつく地名が多いのだろうか?半谷(はんがい)となると姓であり小高では有名な人である、地名が姓となった
ガイは萱(かや)にも通じているし谷地(やち)にも通じている、湿地帯とか萱が茂っているとかである、そういう状態の所が日本がに多いからそうなった

ここの地名の謎は石神村内に大谷村があり独立していない、だから野馬追にも出る武家の出がいない、つまりここは比較的新しい土地である
新しく開墾された土地だとなる、そして新田川の両岸でありそこから山間の狭隘な地域に入るいい場所ではない、だからここで会った人の家は前が森で高くなっていて日影の場所で日当たりが悪いからいい場所ではなかったからだ
そういう場所はあとから入ってきた人が住むことになる
その土地で良い場所は古くから人が住んだ場所だとなく、前田という地名はその土地の草分けてが住んだ村の中心になっていることが多いからだ

ただこの大谷村の謎は野馬追に出る武家もいない、戸数も20戸くらいと少ない
それでてぜ栃窪村に大谷(おおがい)姓の人がいるのなぜだろうか?
それは一族を形成した

姓の由来は地名にありその地名を元にして分派した
だから栃窪村があるとして他の村に出ると私は栃窪村の出身だから栃窪と名乗る
でも栃窪村にいたときはわざわざ栃窪という姓を名乗らないのである
だからその土地の村の地名を姓にしている人はいないのである
外に出たとき私は…村の出身ということで村の名前を姓としている
それは深野とか岡和田でもいろいろある

ただ遠くから移住した場合はその土地のこと村のことはわからなくなる
ここでは相馬氏などがそうである、千葉県とか鎌倉とかから移住した武家がいるからだ
でも千葉氏となると千葉県であり千葉一族の出だとなる
なぜこの大谷にこだわるかというと自分の家で関係していたことがあったからである
その人も死んだし関係した人も死んだ、でも大谷家は栃窪で一族を形成していた

そもそも人の移動は常にある、狭い地域内でもある、特に開墾されていない原野が多い時はそうである、土地を求めて人は移動する
それで越中など移民が飢饉で三分の一も人口が減った所に命がけで移民したのは土地が得られるからだった、その土地も相馬藩内ではいい土地ではなかった
すでにいい土地は古くから住んでいる人が所有していたからである
だから狭隘の土地とかが与えられたのである

この大谷(おおがい)村について推測して書いたが間違っているかもしれない
記録したものとか調べていないからである
図書館にはもう5年とか行っていない、家事とかに追われてゆっくり調べられないからだだから肝心なことで誤っているかもしれないが一応関心があったので書いた
インタ−ネットで調べられるから郷土史研究でもできるともなる
図書館は調べるのがめんどうなのである、その場所に行かねばならないしいちいちコピーするのもめんどうなのである
だからこういうものは暇でないとできないと思った
その暇がなくなったのである

こういうとき墓地を調べるといい、狭い狭隘の所に墓地があったからだ、そこで何かわかる、ただ今回は国見山に登らねばならなかったので調べられなかった
posted by 老鶯 at 17:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸時代
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