場所の現象学を読む(場を無視した工業化情報化グローバル社会)
(キップリングの詩の訳の解説)
I am the land of their fathers
In me the virture stays
I will bring back my children
after certain days
我は彼らが父祖の国
我が内に力ぞ宿る
我が子らを連れて帰らむ
月日充ちなば
彼らが頭上、新たに買いし
古き立木の枝の間に
我は秘呪を織りなして
彼らが膝に惹きよせむ
夕暮れの煙の香り
夜の間の雨の匂い
時と日と春秋と
彼らの霊を整へ
すべて我が八千歳の
意味をば説き明かし
彼らが胸を知恵もて満たし
彼らが眼をば涙に満たさむ
キプリング
この本は古くなって焼けたようになり半分がはがれて本にならなくなった
これはどこで買ったのか、おそらく神田とか水道橋かもしれない、その頃古本を手に入れることはむずかしかった
でもそんなに東京には行けなかった、旅の帰りに寄って買ったのかもしれない
本は30年でもたつとはがれたりしてくる
この本はもう本というのではない、読むことがむずかしくなっている
本もこうしして保存できなくなる
50年が限度でありそれ以上になると再販するとかしないと読めなくなる
何かそういう本も多いのである
まず本を出して50年後に貴重だとなるものは少ないだろう
ただ時流的なものは読まれなくなるがこうして深いものは特に詩などは後世の人にも読まれる
それは極少数でも読む人がいるのである
その価値を認める人がいるのである
だからこういう価値あるものは本はデジタル化して残すといいかもしれない
デジタル化すると劣化しないからである
この本を読んで内容もそうだが感心したのは翻訳である
この英詩を訳した人は相当に詩を理解する素養をもっていた
まずこんなふうに翻訳できることは詩を深く理解しないとできない
この日本語訳自体何か詩を創作した感じになる
英語が深く知らなくても何かこの日本語訳で深い意味をくみとることができる
今何か日本人自体が日本語に通じない、そういう能力が劣化している
詩となるとやはり相当な日本語とか漢語とか詩語とかに通じないと鑑賞も創作もできないその能力がかえって明治時代とかから比べると劣ってきている
英語に親しむ度合いが増えても肝心の日本語とか漢語とかの表現力が衰えているからだ
この詩は相当に深い意味が背景にある
これは前に書いた
この文の続きである、それでこの詩に興味をもった
矛盾しているのはこの人はイギリスの貴族であり大きな館に住んでいた
そしてアジアでも前のビルマとかにも軍人として遠征しているのである
そこで
我は彼らが父祖の国
我が内に力ぞ宿る
父祖というとき家の力とか土地の力とか歴史の力に呼応するものがある
でも矛盾しているのは外国に行ったら外国には外国の土地があり先祖がいる
そうしたら父祖の国であるイギリスとはまた別な世界になるからその先祖をもちこんでも受け入れられないとなるのだ
それはグロ−バル化しにくいものなのである
その育った国でしか成り立たないものなのである
でも日本の戦争でも天皇をもちだしたときそうなっていたのである
天皇が日本人の大先祖であり連綿としてつづいてきた
それを韓国とか中国とかアジア全般に持ち込んでも通用しないのである
その土地土地には先祖がいるからである
イギリスの王様の先祖はアジア諸国の先祖ではないからである
ただその国内でアイディンティティ化するなら問題ないし共感するのである
古き立木の枝の間に
我は秘呪を織りなして
この表現も何か詩的に深いものがある、イギリスというと古い国だからそうなる
秘呪とは秘術となるのだろう、何かその土地にある霊的なものを地霊とかの表現かもしれない
夕暮れの煙の香り
夜の間の雨の匂い
時と日と春秋と
彼らの霊を整へ
日々暮らしいる場にはそれぞれの何か特有の雰囲気があり風土がある
それはなかなかわかりにくいのである、ちょっと旅しただけではわかりにくい
それで(会津の雪)という詩で会津独特の風土から生まれたものを表現したのである
そういう風土の影響を必ず人間は受けるからである
そこで一つのアイディンティティが形成される、その場独特のアイディンティティが形成される、それを霊を心を精神を整えるとなる
その場その場にはか必ずその場から発するものエネルギーでも感じる
神社は場所と深く関係して建てられているからそこでパワースポットとして訪ねる人がいるのもわかる
人間生活の刻印によって明確にされた一つの「場所」は生き物のように有機的思えるに違いない、一軒の家が地表上に占めている場所、つまり現実の空間におけるその位置は
その家がとりこわされて取り払われても同じ場所のままである
しかし建築家によって創造された場所は幻影なのである‐ランガーの建築学的場所の議論より
ここまで場所の重要性を説いている、つまり土地こそその場こそ人間の根源的な意味をもたらすものであり建築は家は幻想だとまでしているからだ
「場所の現象学」エドワ―ド・レルフでは場所の意味を深く追及しているから一読すべきである
場所の永続性あるいは場所の外見と精神における連続性というものが存在する
ある特定の場所のアイディンティティは多くの外的変化を受けても持続することができるなぜならそこには内的な潜在力のようなもの、すなわち「内なる神」があるからだ
しかし場所も人間のかかわりコミットメントでその場所も活きてくる
多くの儀式や慣習や神話はその新制で不変の意義によってたけでなく人ひとと彼らの場所と関係の持続性を再確認することによっても場所の愛着を強化する意図となる
儀式や神話がその意義を失い人々が深くかかわることをふめるときその場所自体が変化しやすくうつろいやすいものになる
(場所の現象学)
グロ−バル社会とか広域社会は経済一辺倒の価値しか認めないからすべて金で計られるのである、そうした場所との不可分のつながり絆とかも金の方が価値あるとなりこの辺では原発事故で避難者が一億円補償金もらったら即座に外に出てしまって家を建てたとかなるしかしその時その土地であれ先祖であれアイディンティティは奪われたのである
そして一からまたアイディンティティを築くほかていから金銭的には物質的にはいいが精神的には相当に負担になるのである
根付くことに飢え、根付くことを求め、所属感や、私のもの、あなたのもの、我々のものとして認める場所のために闘争することは、全く私たちの人間性の一部である
それは政治的なものではない、人間の根源的欲求なのである
ある場所に根付くことはそこから世界を見る安全地帯を確保して、また物事の秩序の中に自分自身の立場をしっかり把握し、どこか特定の深い精神的心理的な愛着をもつことである
(場所の現象学)
こういうことを私は詩で書いたように求めてきたことである、人間には確かに遊牧民的なまた風のように鳥のように自由に移動したい、何もにも縛られたくない、土地にも縛られたくないという欲求も強い、それとと同時に植物的な大地にしっかり根をはって定着して安心したいということがあるのだ
現代の問題はマスメデアでも情報社会だけど場所と関連して理解できないのである
マスメデアはその受け手が直接に経験できない場所に単純化され選択されたアイディンティティを都合よく与えて、偽りの場所の偽りの世界を作り上げようとしている
(場所の現象学)
ともかくこの本は深く読む必要がある、事件でも実は場所と深く関係している
だからこそtake placeなのである
そして良く私が郷土史研究で地域のある場で人と話すときそこで少しでもそこに住む人と語ると語ることが活きてくると思った、話がはずむのである
それはなぜなのか?それはその場の力だったのである
抽象的言語空間ではない、そこに具体的なものとして森があり土地があり日ざしがあり影ありそこにそこだけの土地のたたずまいがある、それはその土地に立たない限り感じないのである
だから家でもその家のことを知るにはその家の中に入り庭を見て辺りをみて話を聞けば家のこともわかる
でもそれはなかなかできないことである、でも家は場所と関係していることは確かなのである
原町区の大谷(おおがい)村で語った人は杉の葉を集めていたしその家を見ると薪にするのか切られた木材があった、そしてここは日影で嫌だとかいうとき本当にそういう場所だった、前は森であり日が当たらないのである
実際はその人は街に移り住んでそこには住んでいなかったのである
大谷(おおがい)という場で人の話を聞く語る時それが活きるのはやはり場の影響だったのである
テレビを見ても旅の番組を見ても場の力をとか影響は受けないのである
それはあくまでも四角の狭い箱からしか見えないものだからである
その場の雰囲気を感じることはできないのである、そこにテレビでも映像でも写真でも視覚的なものから錯覚を受けるのである
それでイラク戦争の時油だらけの海鳥が写されたがそれはほんの一部のことであり実際はそうではなかったのである、やらせの映像だったのである
やらせではなくても映像は動画でも何か錯覚を作り出しやすいのである
いづれにしろこの詩は場の神秘性を表現した詩なのである、芸術は場と深く関係したものである、音楽すらベ―トベンの音楽を理解するにはドイツの地を踏まないと鑑賞できないというのもそうである、その場と密接に結びついて芸術は成っているからだ
フランス絵画から印象派が生まれたのはフランスの明るい光がある風景からである
ドイツの雨とか霧が多い風土から生まれ得ようがないからだ
ドイツから音楽とか哲学が生まれる土壌だったのである
現代に衰退したものがこの場の力なのである、東京になればもう場の力はない
都会だとどこにいてもビルがあり家が密集して場の力は感じない
田舎だと隣でも場が違うとその場の影響を受ける、違った雰囲気になるのだ
だからいつも同じようでもそれぞれの場は違ったものでありその場の影響を受けるのである、だからまた土地の表面だけをただ早く早く通りすぎる車だと場の力を影響を受けないただそこは高速道路のようにベルトコンベアーのように機械が流れてゆく感じになる
場の影響を受けない、感じないことはただ物体が機械が空間を移動しているだけなのである、そこでは浅薄な体験しかできない、一番旅してもその土地の独自性を感じるには歩くことだとなる、だから江戸時代の人は歩いていたからその場所場所を肌で五感で感じてその場所から受けるもの神秘的なものを感じたのである
芭蕉が今のように車で旅したら何も感じなかったろう、あれほど感じたのは場所を感じたのはやはり歩いたからだとなる
場所とのコミトメントを喪失した人間はアイディンティティをもつ場がない
それで何事浅薄になる、自分の立つ場所がないからunderstandできないとなっている
マスコミとか映像とか動画とか文字情報でもあふれても何か深くアイディンティティ化して理解できないのである
いくらグロ−バル化しても世界のことを理解できるかとなると表面的でありかえって偽りの情報にまどわされ翻弄されるのはやはりその場のことを体で知ることができないからである
工業化すると車の部品をどこで生産しても同じである、世界中でどこでも同じである、となると工場は安い賃金を求めて移動する
人はただそこで機械のように働かされる、でも農業だと漁業とか林業でも一次産業だと必ずその場と密接な関係があって生まれた生業だからそうはいかない、工業化がグロ−バル化を推進したのである
いくら情報化社会といってもそこに人間の限界がありグロ−バル化には限度がありそれで世界を理解するというよりむしろ誤解が多くなりそこでまた衝突して戦争にもなるのである
人間を理解するときそもそもその場所のことを住んでいる場所のことを理解しないとできないからである
駅で遠くから来た人と話すときやはり最初にどこに住んでいるからをみる
するとその地理的位置のことを地図上ではなち自分の経験から推察する
私の場合は全国を隈なく旅したし外国もある程度したからそこで推察するのである
とても地図を見ただけではその場所のことはわからないからである
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