2019年02月18日

春満月(夕べ原町へ)


春満月(夕べ原町へ)


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二日前だったかこの池は凍り付いていた
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川子の急な坂道

春の月耕す畑を照らしなむ

春の月しげく通いぬ原町へ   

春満月桜井古墳に二人の主

川子なる池の凍りてすぐに立つ樅の数本に墓地のありしも

ホームにて遠くの人と話しつつ春の日穏やか今日も駅に来ぬ

萱浜の(かいはま)のなお津波の傷あれや春満月にいやされむかな

古(いにしえ)に船の来たりて船着きや春満月の照らしけるかな

市庭と古の人や商いぬ春満月の海よりいでぬ


今日も忙しかった、それはサイフなくしたとか騒いだのと今度はゆうちょの通帳がなくなっていた
これもめいどうになったがサイフが出て来たのでなんとかなった
とにかく通帳でもいろいろあるとわからなくなるのである
今日は銀行とゆうちょにより次に駅による、駅には毎日行っている
ただその時間は20分くらいなのである、だからこそ寄れる、そうでないと他のことができなくなる
毎日プログを書くことが課せられているからだ

川子の坂の道はかなりの急坂だけど今度の電動自転車はすいすい上るから楽である
この自転車だけには感心する、走りが自転車よりバイクという感じになるからだ
とにかく昨日一昨日とかまでは冬だった、一昨日はまだ厳しい冬だった
それで川子の池は凍り付いていた
そこには樅の木があり合っていた、そして坂を上る脇に墓地がある
短歌も写生なのである、ここでは別に何も飾るものがない、見たままを短歌にしただけだからである
だからこそその厳しい姿がかえって映し出されているのである
芸術の基本は何であれ写生であり写実なのである

萱浜(かいはま)に春の満月が出ていた、津波の後に海が近くに望まれるようになった
それまでは松原とかにさえぎられて見えなかったのである
津波の後に景観が変わったのである
でも何かまだ津波の傷跡は残る、8年過ぎても依然として津波の傷跡は残る
いかにその被害が深く大きかったかを物語っているのだ
だからいつになったらこうした傷跡も過去のもものになるのか?
まず数十年とかかかる、十年でもたりない20年とか30年とか過ぎてようやく過去となるのかもしれない
それほどに津波の被害は大きすぎたのである

ビジネスホテルの高見で焼魚を食べた、あそこはホテルに泊まる人の食事を出していた
ホテルの外の人は二人だった、でもあそこは広いしゆったりしているから私は好きである
味噌汁でもアサリ貝の味噌汁で気にいった、カニの味噌汁も出す、大きな鍋で作るからおいしいのである
なぜあそこにあまりホテル以外の人が入らないのかわからないのである

桜井古墳には二人の主が木棺に収められていた、これも不思議なのだがこの辺の有力者であり王がいて二人を祭る古墳だったとなる、それは前からいた先住民と後から来た征服者が一緒に祭られてともなる
そこで手を結び平和がもたらされた地域だったのかともなる
そうなると春満月がふさわしいとなるのだ

満月は塩アの平安時代なのかその前なのか船着とか一庭とある地名がありそこまで海だった、船が来ていたというがなかなかそれが資料が残っていないのでリアルに感じられない、ただ津波は船着きの前まで来ていたからそこでリアルに感じるようになったのである
その考察を次にしてみる

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