2019年02月18日

万葉集の真野の草原(かやはら)の歌を自らの短歌を創作して再考察 (やはり真野の草原は地名説とするのが有力)


万葉集の真野の草原(かやはら)の歌を自らの短歌を創作して再考察 

(やはり真野の草原は地名説とするのが有力)

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ここには古い石碑もあるがこれは寺があったときのものである
大同のものは残っていない、ただ言い伝えだけが残されたのである



古(いにしえ)に船の来たりて船着きや春満月の照らしけるかな

市庭と古の人や商いぬ春満月の海よりいでぬ 


今日は春満月がでていた、昨日はまだ厳しい寒さだっからなごんだ
そして原町からの帰りに六号線を通るが今回の津波でそこは本当に海になった
実際に烏浜の港から六号線に船が流れてきたのにも驚いた
そして塩崎には船着と市庭という地名がある
その船着の前まで本当に津波が来て海になっていたのである
実際に古代にはそこまで海が入りこんでいて船が来ていたのである
それで大内には曾賀船(田)という地名があり船がさかのぼるということでつけられた地名とされる、海だったがそこは田になって地名が残った
それはまるで地名の化石地名である
大内から頻繁に船が来るのを見たからそういう名前をつけた
それを立証するのか?
800年代の御堂が大内にあった、そんな古い御堂があるのか?それも発見だった

薬師堂 寺域にあり、平地堂方二間、縁日7月8日、伝えに曰く、大同二丁亥年創建、
本尊聖徳太子製作仏胎

大同二年(丁亥)807−808となるとそんなに古いものなのか?
それは訪ねてみたが本当に古い感じになる、寺の領域にあったが寺はなくなっていた
土地の人が薬師堂として祭っていた


坂上田村麻呂の蝦夷征伐の時代でもあることに注目し、両者が混ざりあっているのではないかと言う(遠野物語24話)。

 大同とは大和朝廷が東北を侵攻した時期全体をいうのではないかともいわれている。
東北地方に田村麻呂創建と伝えられる寺社が多いのは、「化外の地」東北を経営するために政治的な意図によって歴史が作りかえられたのだろうか。


坂上田村麻呂の建立とされる寺社や奉納したとされる寺社伝説はゆかりの深い東北の岩手県、宮城県、福島県を中心に残されている。また彼が通過したと考えられる茨城県、長野県、静岡県、愛知県、三重県、滋賀県にも残されている。しかし、田村麻呂が直接行ったとは考えられない山形県、秋田県、青森県さらに西日本の和歌山県や岡山県にも伝説が残る。特に多くの伝説が残されているのは福島県田村地方であり、生誕伝説から地名伝説そして寺社伝説に至るまで約80種類(うち30種類は寺社伝説)を数える。次に多いのが宮城県で約40種類(うち25種類は寺社伝説)の伝説が残されている。


三春は田村市である、坂上田村麻呂に由来している、そこから真野の地は遠くはないのである、大同年間に坂上田村麻呂の活躍があり伝説化したのである

いづれにしろ

陸奥の真野の草原遠けども面影にして見ゆといふものを (笠女郎)

この歌は真野の草原(かやはら)とするとき誤解が大きくなる
萱(かや)が茂っている真野となればそれは秋から冬に季節が限定されるのである
もし地名なら私が歌にしたように四季に歌われる場所となる
春でも夏でもいいのである、だから何か草原(かやはら)で限定するとおかしくなる
船着とか市庭という場は船が着いて商いがあったにぎやかな場だったのである
するとそういう場にただ萱原が茂っている場所とするのはそぐわないのである

もう一つの石巻説になるとこれは遠いのである、まさに辺境そのものである
そんな所に萱原という地名があるにしてもそこがなぜ笠女郎が歌ったのだろうかとなる

●真野の草原を萱原とする説

●真野の草原を地名とする説

この二つに分ける時大きな差が生まれるのである
これを私が単価したように地名なら港だとすると船は春にも入ってくるから満月の時にも船は来ていたとかなりイメージすると何かそこが栄えていた遠い昔が偲ばれるのである
でも草原をただ萱原が茂っている原野のようにイメージすると春とは無関係になるからだ
これは笠女郎が大伴家持を慕って歌ったものである
どんな遠い所に行っても私はあなたのことはわすれませんよということである
そしてみちのくの真野の草原は地名であり遠い場所として奈良の都の人たちに知られていたとなる
それは春にもふさわしい場だとなるのである
でも草原が萱原としてしかイメージしないとそれは何か春とは無縁な淋しい場になるからだ
だからこれをどちらにするかは大きな問題なのである

いづれにしろ大内にこれだけ古い堂があるということは一つの証明である、大同年間に坂上田村麻呂がかかわりこの辺にも来て御堂が祭られた、もしかしたら蝦夷を撃ったため原住民を殺したためにそれを慰霊するために祭ったのかもしれない
そういうのも東北に多いからだ、その最たるものが奈良の大仏だったのである
大和王権が日本国を征服して一つの国としたときあの大きな大仏が作られた、鎮護国家の仏として作られたからだ
それは地方でもみちのくでも建てられたとなる
海老村ははエヒであり蝦夷のことであったからだ

とにかく地名は本当に化石のように古い、船着の手前まで津波が来たということでそれを証明したのである
市庭はそれより奥にある、そうした位置関係もやはりそこに市が開かれたという現実を証明している
あまりにも海に近いのでは危険にもなるからだ
当時は防波堤など作れないからである、そこは船が着く場所でありそこから離れて市が開かれた
それにしても入江がこれだけ奥まで入っていたことに驚くし津波で現実化したことにも驚いた
その時この辺は本当に美しい入江となっていたし塩崎(しおのさき)というのもまさに海に面していたからである
ただ真野の草原を笠女郎が歌ったのは750年とかの説がありそうなると大内の薬師堂は800年になるから新しいともなる
ただここが入江だったのは平安時代辺りまでだろう、だから750年にも真野の草原があり地名として知られていたのかとなる
するとそれより前にも知られていたとなる
浪江の棚塩から出たのはツノガノアラシト系統であり一番古い

津(ツノ) 神社


(宇多郷) 尾浜3 原釜1
(北郷)烏崎
(中郷)堤谷 金沢、萱浜、小浜、泉
(小高郷)角部内 
(北標葉郷)棚塩

これがツノガノアラシト系であり棚塩は700年だとすると一番古いからだ

結局真野の草原の謎は尽きない、でもどうしても私は地名説をとるのである、地名だとしたら別に萱原ではない、萱が茂っていたと限定されないから春の歌にもできるのである、そういうふうに二つの説で変わってしまうのである
だからこそどちらにするかが問題であり解決しないと後の人もイメージできないとなっているのである









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