私の父は双葉の新山の酒屋で丁稚で働いていた
(その記念の皿を割ったー終活は大きな負担だ)
これは今の双葉郡の新山だけで元は長塚町だった
歴史という時、相馬藩の歴史とかまた大きくは国の歴史がある
人間が一番興味があるのは自分が育った家の歴史なのである
だから自分のルーツに興味をもつ人が多いのはそのためである
それで郷土史は祖父母からおじいちゃんやおばあちゃんから聞く話からはじまると書いたおじいちゃんとかおばあちゃんはどうしてもその家の語り部になるからだ
何か必ず伝えるものがあるからだ
そこにはただ負の歴史がある、語りたくないものがあるのですべてを語りたくないし
隠したいものがあるしプライバシーにもふれるから他人の家のことをとやかく語りにくい面があるのだ
それで一軒一軒の家が郷土史として歴史なのだけどわからないのである
ただ家族がみんな死んで自分の家に残ったのは自分一人である
すると私自身に課せられたものがある、それを残す作業をしている
終活というとき物の整理になるが実際はそれだけではない
親や祖父母の残したものは物が残ったとしても精神的なもの、モノでは語られないものが多いからである、つまりモノがあったとしてもそのモノにまとわりついたストリーが思い出があるから簡単に捨てられないのである
モノとは単なる物ではない、その残されたモノにはこれまで生きた思い出がしみついているからだ、親が死んだときだからそういうものを整理するとき捨てていいかどうか悩むのがわかる
そういう自分だってもういつ死ぬかわからない、それで自分自身の終活もある
それが重なるのが高齢化社会なのである
まず家の物を整理する作業が大変なのである、だから放っておくとゴミ屋敷になることがわかる、何か整理することが相当なエネルギーを必要とすることがわかったからだ
それで毎日整理しているのだけど整理できないのである
それは知的作業としても今まで書いたものを詩などが膨大にあっても整理できないのである
そして家事をするにもしやすいように整理整頓しているがこれもまた苦労なのである
毎日家事をすることや整理の仕事や料理でもしないなるとそうしたことに追われている
そしてつくづく人間はいろいろなことに頭が回らないということである
それで冷蔵庫でも良く見ていないと同じものを買っていた
認知症になるとそういうことが多いが度々開けて見ていなと何があるかわからなくなっているのだ
この皿を割ったのはそこにあったことを忘れていた、棚にあったがそこから落ちた
それで割ったのだがその時はじめてこの文字を書いてあることに気づいた
「磐城国新山」とあった、磐城国というとき磐城大田とか原町の隣の駅にあるように
磐城国にこの辺はなっていたのだ、それは明治以降そうだった
それで葛尾村(かつろう)にも磐城落合とか地名が残っているのだ
そして浪江とかは今でもいわきナンバーなのである、つまり磐城国を受け継いでいるのである
ここで私の父親は葛尾村からこの酒屋で丁稚奉公に出て働いた、そして暖簾分けして鹿島の地に移ったのである
それは聞いていたのだがあまり意識しなかったが家族がみんな死んだ結果意識するようになった
今でも大きな酒屋が双葉には残っている、富沢酒造店であり煙突も高いので営業していたのである
その辺の近くに私の父親が勤めた酒屋があった、でもそれは倒産してなくなったのであるそれは戦前のことであった、そして父の娘である姉はそこに銀行があったとか言っていたその当時おそらく銀行はどこにもない、めずらしいものだったのである
とにかくこうして残されたものが物語ーストリーがある、それが歴史である
モノがあったとしてもそこには必ず物語がつきまとっている
そういうものが一軒一軒の家に残されている、そして蔵のある家などで何か探していると偶然に遠い過去のことが資料として出てきたりする、それが貴重な郷土史になったりするのである
いづれにしろこの終活は時間がかかる、それは物を整理するというだけではない、そこには物語とか精神的なものが付随しているからである
それを受け継ぐことをどうするのか?
それは国家的なものでもそうである、戦争で300百万人死んだという時もそうである
一体そうした死者をどうするのか?どう扱うのかとが大問題になっているからだ
それは70年過ぎても解決しないからである
後世のものがそうした歴史の負の遺産であれプラスの遺産であれ引き継ぐことになるからだ、それで姉が従軍看護婦として四年間シンガポールの隣のジョホールバルで地獄の苦しみを受けて生還した
そのことを死ぬ直前まで語って死んだ、認知症になってもそのことが一番印象的だったから忘れなかったのである
それで失敗したのが認知症になっても島根県の戦友がいてその人からもらった手作りのバッグを肌身離さずもっていたのである、そして連絡が絶えてしまった
その時死んだことを連絡すればいいと今になって思った
すでに死んで8年もすぎた、今になって気づいたのである
なぜなら認知症になったことでふりまわされ次に母の介護とか津波原発事故とかで何か余裕をもってふりかえることもできなくなっていたからだ
ただインタ−ネットのプログとかこうした個人的なものを書き残すには向いている
そうでないと公にされないから普通は個々人の家の歴史はわからない
伝えられないのである、またプライバシーがあるから伝えにくい面がある
でも歴史として郷土史として残す価値はある
つまりどうしてその家が郷土で成り立ちまた繁栄したりしたのかという物語がわかるからだ、何か繁栄するにはそれなりの理由があるからである
もちろん母の実家は父が警察署長になったとしてもその後機織り工場経営で失敗して一家離散になったとかそこには残される歴史でも負の部分が多いし親戚ともめたので今は私は墓参りもしない、そういうふうにいくら家の歴史でも負の部分が大きいと語りたくないとなってしまうのである
ただこの負の部分が必ず家にはある、だからあまり一軒一軒の家でもその家のことは語りたくないとなる、だからあるその土地の家が語られるときやはりその土地で何かしら貢献した家だとなる
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