2019年02月25日

松川浦は海の文化を育む地域 (春の日に釣人と魚の話)


松川浦は海の文化を育む地域

(春の日に釣人と魚の話)

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船越観音でも津波が襲い辛うじて社殿は残った
ぎりぎりだったのである

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ホシカレイ



親潮(おやしお、Oyashio Current)は、別名千島海流(ちしまかいりゅう、Kuril Current)とも呼ばれ、千島列島に沿って南下して日本の東岸を通過する海流です。栄養塩が豊富で、「魚類を育てる親となる潮」という意味で付けられました。北海道、東北地方に良い漁港が多いのはこのためなのですね!その濃度は黒潮の5〜10倍あり、春になると植物プランクトンが大発生し、緑や茶色がかった色になります

 松皮鰈、松川鰈。由来・語源 

■ 多くの文献に本種の表側(有眼側)の鱗がかたくザラザラしているのを松の幹の表面のようであるからと記載される。
■ 田中茂穂の『魚』(1940年、創元社刊行)に「まつかわ」は茨城県、福島県の呼び名であるが一説に『茨城県鹿島郡夏海村松川(今のどこに当たるのか?)で多くとれたためについた」と記述されている。
■ 福島県松川浦にちなむ。

アブラガレイ ガヤマガレイ カワガレイ カンタカ キビラメ キマツカワ サンクワウ シロマツカワ タカガレイ タカノハガレイ タカハガレイ タンタカ ニシキガレイ バカハダ ハトガレイ マツカワ ムギガレイ ヤマブシ ヤマブシガレイ 


マツカワカレイに並ぶ高級魚のホシカレイ。
身がしまっていて味が濃い白身です。
刺身で提供します。
  
カレイには種類が多く、日本近海だけでもメイタガレイ、アカカレイ、石ガレイ、ババガレイ(ナメタガレイ)、ヤナギムシガレイ(ササガレイ)など40種以上もあります。また、北海道から九州まで広く分布しているため、地方によって呼び名も味も旬もいろいろあります

城下鰈(しろしたかれい)

その美味は古来より知られており、江戸時代には武士しか食べることができなかった[注 1]。また、日出藩では端午の節句の全員登城の際に城下かれいの料理が出され、そのために4月頃から一般には禁漁にされたともいう[6]。城下かれいは、将軍への献上品とされて珍重されていた。通常は、参勤交代の際に干物が献上されていたが、閏年には端午の節句に間に合うよう、生きた城下かれいをいけすを備えた船や早馬を用いて江戸まで運んだといわれる
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松川浦史実伝承編

古今和歌集の「世の中は 何か常なる 飛鳥川 昨日の淵ぞ 今日は瀬になる」という歌だという

お堂の左手には鹿島神社があり、左奥には錨(いかり)堂というお堂。宮城県岩沼市の千年希望の丘の側でも鹿島神社にお参りしましたが、東北には鹿島神社が多いようです。常陸国一宮・鹿島神宮は天平勝宝元年(749)に万巻上人が神宮寺を建て(「筥根山縁起」)、鹿島大明神の本地仏は十一面観音菩薩とされています(「神道集」)。
 錨堂には、大きな錨が奉納されていました。南北朝時代の南朝の忠臣・肥後の菊池氏の一族が海路、当地に落ち延び、守り仏を本尊として祀ったのが船越聖観音堂だそうです。その末裔「備中四家」は、明治の初めまで船による交易を行っていたとのことで

「夕顔観音」も、そのルーツは下総にあることが分かりました。千葉一族の祖・平良文は夕顔の花を好み、良文の遺言により夕顔の実を割ると、中から出現したのが夕顔観音さまであったそうです。その後、千葉常胤の父・常重が夢告を受け、夕顔観音菩薩を本尊として樹林寺(千葉県香取市)を建てました。慶長5年(1600)、関ヶ原の合戦の功績によって下総多胡藩から信濃高遠藩に移った保科正光(正室は真田昌幸の娘)は、樹林寺の夕顔観音さまを写したお像を本尊として高遠にも樹林寺を建てましたが、そのお像は、十一面千手観音菩薩です。相馬の鵜の尾岬に流れ着いたという夕顔観音さまも、下総の夕顔観音菩薩を勧請したものなのでしょう


松川浦の貝殻地蔵



海岸の埠頭で魚釣りしていた人がいた、ちょうどホシカレイを釣り上げたところだった
岩沼から来た人たちがそこにいた、これは高級魚である、カレイの種類は多い、日本がだけでも40種類あるとかなる、魚そもそも種類が多いのである
マツカワカレイのことを言うひとがいた
その人はこの近くに住んでいて三日に一度きて釣りをしているとか言っていた
マツカワカレイの名前は松川浦と関係あるのかと思ったがそうではないらしい
有力なのは松皮なのか?
ただ土地の名がつくものとして城下鰈(シロシタカレイ)の話は面白い、城の下でそこだけでとれるカレイであった、侍しか食べれなかったということである
庶民との区別がない日本にしてはこういうこともあったのかと思った
それだけにその魚と貴重だった
この辺では石鰈は年越し魚として有名である、大晦日に食べる魚でもある
不断は値段が高いので食べられないからである
それはやはり冬にあった魚であり身がしまっているのである
その魚すら放射能物質の汚染で食べられなくなったのは本当に残念だった

でも不思議なのはそうした大きな打撃でもノリを作っていてもとれなくなっても
アサリ採りの潮干狩りができなくなっても多額の補償金が船主中心にもらいから生活には困らない、かえって潤っているということもある
それは原発前から相馬双葉漁業組合では漁業権を東電に売ったから金持ちだったのであるだから新しく立派な家を建てたのはそうしした人たちだった
この辺で磯部などは壊滅したから建てた人がいるし原町にもいた
その庭は本当に一千万以上級の庭だから驚く、ほれぼれとする庭なのである
それだけの金が入ったとなる

これも矛盾である、そして魚もとらない漁師がどうしてここに住んでいるのだと自問自答した姿はまさに哲学しているともなる
何が存在意義なのかわからなくなったからである
ただ生活費は補償金として特別支給されているのだから困らないけど魚とらないとしたら漁師ではない、では何になるのか、東電の特別供与社員のようになっていたのであるそれ地域にとっては必要ないものだった
それが原発事故で明らかになったのでその不満が大きいのである
松川浦でもそういう不満を言う人がいたのである、なぜなら港に住んでいても漁業にたずさわる人が全部ではないからだ
だから未だに潮干狩りができないことは本当に観光にとって痛手なのである


石鰈は一匹二千円とかした、それが小高の女の人が前に行商して売りに来ていたのである
この魚を前に姉が生きているとき戦友だった会津の人に送ったら喜んでいた
それは会津ではこうして新鮮な魚が食べられないからである
その代りに見知らず柿が送られてきたのである
その人が原発事故で避難区域になり仮設に住むようになった
その仮設に住んだ人が苦しんでいるかとなるその人にとっては魚の行商しているよりは補償金をもらって仮設に暮らしている方が良かったのである
だから何か苦しいということは見えない、金をもらって喜んでいたのである
そういう人は少なからずいたのである、そこが外から来る人には誤解するとなる
今でも原発避難者にはそういうことがある
津波の被害者はまた違っている、第一家族が死んだりしているからである
もちろん漁業関係者でも津波の被害にあった人が多いからそういう点では同じである
ただ津波にあっても生活では全く困らないのである
例えば宮城県とか岩手県の津波の被害の大きい地域ではそうしした原発補償金はもらえないからである、ただ女川などはもともと同じように漁業者には東北電力から補償金をもらっていただろう、でも東電の補償金は桁外れだった
第一やはり農業と同じで漁業は後継者がいなくなっていた、だから衰退産業であったから農業と同じく原発頼りになっていたのである

漁業はまた農業とも関係していた
この前あった他から来て何か郷土史に神社に異常に興味をもつ人がいた
その人は塩釜市に松川浦でアラを売りに車で運んでいたのである
おそらく肥料にするためだろう、まず肥料はあらゆるものがなる
刀作りでその鉄くずまで肥料にしていたのをテレビで見た、鉄分になるからいいというのである、貝殻でも肥料になるというより酸性をうすめる、アルカリ性にするからいいとなって実際に知っている人がそれを畑にまいた
そうして肥料代でも一年に数万円もかかる、それを私が支払っている
しかし収穫はほとんどないのである、ネズミに食われた盗まれた、天候悪いとかなりほとんどとれないのである、でもそこにカンナが咲いた時大きな花で映えたからいいなと見ていただけである 

漁師のことはなかなかわかりにくい、二三日前の魚を漁師は食べないというときもそうである、それだけ新鮮なものがうまいからである、そういうものを食べられるのはまさに漁師だけだとなる、他にもいろいろあるがわからない
まず松川浦は外から移住してきた人たちが先祖である
それは漁業だと余計そうなりやすい、漁の技術でも西の方が優れていたからである
それで錨堂であれそうした由来が記してる、ただ平地でもこの辺は第一相馬氏が移住して作られた藩だったことでもわかる、当然千葉氏なども同族だから関係しているのである
松川浦は海の文化をもった地域である
それはやはり松川浦が漁港に適していたからである
そうした入江になっている所が福島県でも仙台までないのである
亘理の荒浜はなっているが他にない、でももともと八沢浦は入江でありそれが津波で再現されたときは驚いた、あそこも大きな船が過去に入ってきていた港の機能があったのである

いづれにしろ海の文化として松川浦はありそこを探求する必要がある
それは魅力的だとなる、まず阿武隈高原を越えたら山国であり海の文化はないからである福島県は会津の山と海の文化がある地域として今もある
それをいかに活かすかとなる、だから原発事故の被害は津波の被害より実際は致命的だったのである
8年すぎても未だに潮干狩りとかができないことでもわかる、こんなに影響するということを誰も真剣に考えなかったのである
ただ松川浦は漁業だけではない、貨物の出し入れとか火力発電所があり石炭も船で入れているし最近はガス事業が大規模に行われている
ガスタンクが作られたしそれで新地の方までその関係の仕事の人がやってくる、そこが働き口ともなる、発電所は雇う人数が千人とか多いからである
だから津波の後でもそうした関係の仕事が増えて復興にはなっているのである

それでNHKのテレビで松川浦の女性のことを放映していた
漁に出た夫のことを心配して安全を祈る、それは海では必ずある、海がしけると遭難がある、海は危険な場所だからである、それで安全を祈るというのは文化ともなる
それは切実だからである

それで俳句にしたのが山の方に春の太陽が沈んでゆく

船無事に帰るや山に春陽没る

こういうことが海の暮らし漁師にはある、ただ海の暮らしとか文化というのもわかりにくいのだ、魚の種類からしてし多すぎるからである
ただ海の文化として松川浦を探求して知ることが不可欠である
津波が400年前にあったとしてもそのことが研究もなにもされていなかったのである
それで私がホームページで松川浦のボーリング調査したことを報告した
かなり奥まで津波が来た砂が発見されたのである、それは貞観津波の(800年代)のものだった、慶長津波のものではなかったのだ
ただなぜ諏訪神社に津波で流された舟がとまったとかの伝説があるのか?
それは小泉川を津波がさかのぼって船を運んだからだとなる
川をまず津波はさかのぼるからだ
それで本当に自分の家は川の側であり川を津波がさかのぼった街の中心部までさかのぼったので恐怖だった、土手からあふれたところもあった
それでそういう伝説が残っても不思議ではなかったのである
いづれにしろこの津波の話は尽きないとなる
ただ8年過ぎて冷静に振り返るようになったのが違っているだけである

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遠くにガスタンク見える
火力発電所も見える、ここは広大な地域なのである

次は俳句短歌の部で語る松川浦の春です




posted by 老鶯 at 17:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係
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