安曇族と綿津見神社
(真野の草原は南と北の境界線だった)
●安曇族の浜通りへの進出
カヤナルミは出雲の大物主命(おおものぬしみこと)(ニギハヤ)と伽耶の宗像神の間にできた女人、出雲王朝にとってこの女性こそが南部伽耶との同盟関係を象徴する者だった
大国主の子の建御名方は出雲から追われ信州諏訪の地へ落ち延び二度と外に出ないことで助命された
建御名方の正体はタケムナカタでありカヤナルミの母は宗像(むなかた)神である
建御名方「古事記」の中で越の国の人、沼河姫とこれに求婚した大国主との間にできた子と記されている越の国には伽耶国の王子ツノガノアラシトが来日したのもキ気比神社で建てられた
出雲に樋川(ひのかわ)
海流を考慮した領地の取り合いになっていることから海洋民族的とみなして安曇氏を呼んだことからも言える
南部伽耶族の神々が宗像住吉神として海の神であった
苕野神社(福島県双葉郡浪江町請戸東迎 38)
式内社(延喜式神名帳記載神社:927 年編纂)
祭神:闇淤加美(くらおかみ)神 、五十猛神 、大屋津姫命 、抓津姫命 ただし本来の祭神は不明
創建:養老元年(717 年)に荒氏が請戸小島に社を建てて奉齋したのに始まり、その後島が海没した
ため、これを現在地に遷座した(この島は現在海中に暗礁として残っている)。
縁起に関する伝承に、海から流れ着いた女神を祀ったという内容の話が幾つかある。近世において
は貴布根大明神と呼ばれていた。
鳥取県の神社(神社数 21社)
和名類聚抄によると米子市付近には伯耆国合見郡安曇郷があった。現在は上安曇と下安曇の二つの村
がある。これらは「あずま」と呼ぶがこれは住民が「あづみ」を訛ったことによるらしい。これらのことからこの地域は安曇族ゆかりの地といえる。
徳島県の神社では「綿」の代わりに「和田」、「和多」と表記する場合が多い。安曇氏族との関連を思わせる神社はない。
イザナキが行った禊で、イザナキから成った底津綿津見神、中津綿津見神、上津綿津見神の3柱。海をつかさどる神としてはイザナキ、イザナミによる神生みで、すでに大綿津見神が生まれており、底津、中津、上津の3神で海を垂直に分けて治める意味があると考えられる。
海幸山幸の神話では「綿津見大神」として登場。兄の釣り針をなくしたヤマサチビコのため、大小の魚を集め、タイののどに刺さった釣り針を見つけ出す。
阿曇氏の移住先の穂高神社(長野県安曇野市)などにも祭られている。
「秩父・仙台まほろばの道」九州とか瀬戸内海とかから海人族が渡ってきたという指摘は重要である
なぜなら安曇族は有名だけどそういう海人族が日本の国造りに深くかかわっていたからである
その証拠としてなぜこれほど南相馬市内でもやたらと綿津見神社が多いのだろうか?
こんなに多いということはそれが何を意味しているのか?
やはり海人族の一団が移動してきて移住してきた証拠なのである
安曇族は浜通りを北上してきている
安曇族と志賀島(9)呉から来た安曇族・九州王朝の場所を伝えていた
綿津見神社 (小倉南区) - 福岡県北九州市小倉南区石田鎮座
綿津見神社 (古賀市) - 福岡県古賀市庄鎮座
綿津見神社 (東区) - 福岡県福岡市東区三苫鎮座
綿津見神社 (糟屋郡) - 福岡県糟屋郡新宮町湊鎮座
綿津美神社 - 福岡県北九州市小倉北区萩崎町鎮座
綿積神社 - 福岡県糸島郡志摩町鎮座
大綿津見神社 - 新潟県佐渡市小木鎮座
吉田綿都美神社 - 福岡県北九州市小倉南区吉田鎮座
新田綿都美神社 - 福岡県北九州市小倉南区新田鎮座
手鎌綿積神社 - 福岡県大牟田市恵比須町鎮座
海とか和多都見(美)とか漢字の表現が違うのである
松川浦に和田がありかこれは綿津見と関係あるのかもしれない
四国では和田は綿津見と関係していたからである
あそこも地理的には松川浦の入江の奥にありそういう場所である
それから原釜にも津波で流されたがその津波記念館の前に龍神社があった
これも安曇系統の神社らしい、特に相馬藩地域には綿津見神社が多い
志賀神社内にもワタツミ神社が祭られているとか志賀との関係も深いのである
つまりこの辺に来たのは九州系の海人族だったのかとなる
綿の字で共通していたからである
ただではそんな遠くから来たのかとなるとそんな航海術があったのかとなると疑問になるただ船を操作するのににたけた一族だった、それは中国からわたってきた人たちだったからである、古代でも短い距離の航海だったら海でできたのである
いづれにしろ古代はその前でも国が確定していなければいろんな人たちが外国からでも入りやすいし日本の国をかえって移動したり移住しやすいのである
なぜならそこには確かに原住民が住んでいても広大な荒野が広がっていたからである
もしそこに強力な国家が形成されていたらできないからである、入り込めないからであるそれで日本の国が大和朝廷ができる前までは国というものも成立していなかったから渡来人が技術をもって入ってきたのである、無政府状態だったともなる
● 真野の草原は気候的に南と北の境界線だった
なぜこれほど渡来人が日本に来たのか?
それはまだその時統一国家がないから自由に出入りできたからである、パスポートがないとか何かそうした制限もないから自由に入って来た、ただ地方には地域の勢力がありそれでそうした人たちがその地に根を張って力をもっていた
それで多数の古墳が作られた、それは先祖を祭るものとして作られたがやがてそうした厚葬は禁止された
大和朝廷が成立したときそうして蝦夷が出雲と対立した
その蝦夷とはただ大和朝廷に対立するものでありそこに伽耶族のツノガノアラシトとか安曇族とか宗像族とか様々な人が群居していたのである、そこには原住民の縄文人の末裔も住んでいた
そういう様々な人は大和朝廷に統合されてはいなかったのである
それで海人の安曇族も日本に入ってきた
ただそういう人たちの勢力が衰えたとき歴史から消えたとなる
また隠されたとなる、それで地名がわずかに残っていてその時をイメージしている、地名というのは消えないからである
こういう古代史の流れを見ないと万葉集の真野の草原の歌が何を意味していたのかわからないのである
そして歴史は地理を見なければわからない、どうしてまずこの歌ができたのか?
それは地理と深くかかわっていたからだ
なぜ綿津見神社がこれほど相馬地域に多いのか?
それはこの辺までは気候的にまだあたたかいということも関係していた
それはここ二三日寒い、寒気がシベリアからおりてきた
その天気図を何回か見た、すると丁度浜通りのこの辺がその寒気のおりる境目になっていた
つまりここは海老村が車輪梅の南限の地としてあったようにそうした南と北の境目にあった
それ以北になるとさらに寒くなるから住むのに適した地とはならないからだ
それでこの辺までは安曇族も進出して稲作とかの技術をもってきて土着した
それは評価らでもわかる、綿津見神社が不和もある乃は本当に多いし現実にやたらこの辺では綿津見神社が目に付くのである
真野の草原の歌の意味しているのは真野の草原は地名でありこの地点までは安曇族でも進出して土着できた
たから気候的にみても石巻の万葉集の草原→萱原だとはありえない、それは遠すぎるからだ、現実問題として真野郷から以北は寒くなりさらに石巻だと遠いし寒くなる
ここが進出する限界点でありそれで真野の草原の歌が生まれたのである
だから綿津見神社がこの辺にふわもあることがそのことを示しているのである
●地図から見る境界線だった真野の草原
福島県でも綿津見神社は相馬地域にほとんどある!
須恵器の発見場所 森浩市
末続(すえつぐ)は須恵器のことである
寒気は丁度真野の草原地域が境界になっておりてくる
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植物の分布とか気候の関係で自然の影響で境界線が生まれる
国でもそうである、ライン河があれば境界線になる
そこは気候的にも南から寒い北国になるとかある
そうして歴史の始まりはそうた自然の影響が大きかった
なぜなら飛行機のように地理を克服できないからである
必ず地理とか気候によって制限されていたからである
だから真野の草原もそういう境界の地点としてあり古代に知られていたのである
だから真野の草原(かやはら)は萱(かや)ではない
大和朝廷国家が成立した時点でそこが境界線として記憶されていたのである
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