万葉集の「遠妻し、多珂にありせば・・」の歌から多珂神社の謎に迫る
「遠妻し、多珂にありせば、知らずとも、手綱の浜の尋ね来なまし」
この歌の意味を訳すと、「遠くに居る妻が、せめてこの多珂の里の付近にでもおったならば、道はよく訣らないでも(知らなくても)、手綱の浜で、尋ねて来ようものを」(折口信夫訳)
多珂にありせばの多珂である。奈良時代(723年頃)にできた「常陸風土記」によると、大化改新(645年)以前の常陸(現在の茨城)は、新治、筑波、茨城、那賀(伸)、久慈(久自)、多珂(高)の6つの国に分けられており、それぞれの国に、朝延から地方の国を統治する役人「国造」(くにのみやっこ)が配置されていた。
また、これより古い書物「国造本記」に、大倭国に始まり、その後の約130の国造を任命した記録があり、国の設置年代が記されている。これによる今の茨城県の国は、下総、新治、筑波、茨城、仲、久自、高となっている。ここに出てくる国名の久慈(久自)は、現在の日立地方で、多珂(高)の国ば、現在の日立市北部から十王町、高萩市、北茨城市を含む範囲にあった。この多珂(高)の国の中に、「手綱」という地名のあるのは高萩市であり、他にない。
ここに多珂という字になっている、なぜこの字をあてたのか?
それがなぞなのだけど常陸の国から行方郡(なめかた)であり郡が移動している
真野里すらあった、この辺の古代で氏族名が明確なのは真野氏だけである
それで真野郷となった、それは石巻からも真野と記された木簡が発見されていて真野という地名があり北上川をさかのぼった登米にも行方と真野と記されたものが出ている
だから真野氏というのはこの辺では氏族名として残しているのである
高神社
京都府綴喜郡井手町多賀天王山1
元明天皇の和銅4年(西暦711年)東村宮として多賀明神社が字川辺に建立され、次いで神亀2年(西暦725年)字西畑に久保村宮が、神亀3年(西暦726年)字綾の木に谷村宮が、それぞれ建立されました。聖武天皇の天平3年(西暦731年)勅願により高御産日神の名より「高」の字を採って「多賀神社」を「高神社」に「多賀村」を「高村」と名称が変更されました
式内社である石勝神社は御朱印地を持った神社として
有名で、祭神は天石勝命である。社伝によると神亀二年
(七二五)に創建され、
社伝によると、聖武天皇神亀二年の創建。
上古、大和よりこの地に移住してきた春日族が
その祖神を祀ったものであるという。
染羽国造 Simefa 標葉郡 福島県双葉郡浪江町苅宿 標葉神社、標葉郷
染羽成務阿岐国造同祖10世孫足彦命(たらしひこのみこと)
陸奥標葉.志賀高穴穂の帝(成務天皇)の御世に阿岐国造の先祖の十世の孫の足彦命を国造に定められた
多珂神社というのはもともとは多賀神社由来であったことは確かである
多賀神社は近江にあり伊勢神社より前には一番参拝客も多い神社だったのである
つまり多賀神社は伊勢神宮より古い神社である、伊勢神社は新興勢力なのである
浪江の染羽(標葉)はシメハでありここに連なっているのである
ともかく行方郡が置かれたのは常陸から軍団が移動したのである
郡とはもともと軍の意味だからである、軍が支配したからそうなる
その行方郡内に真野郷があり多珂郷があるということはこれも常陸から移動してきたからである
万葉集にも多珂郷があることでもわかる、遠くにいる妻とは奈良から移動してきた官人だとするとその妻をはるか離れた常陸の地で偲んでいることになる
では綿津見神社は何を語っているのか?
安曇氏が奉じた神だとしても安曇氏というのはこの辺にはほとんど浮かばない
地名化しているのは近江と長野県の安曇である、そこでは船の祭りが残っていて安曇氏が船を操作する海人だったことを伝えている
伽耶の王子のツノガノアラシトはツノとしてその地名を残している
津神社とは松川浦でも津(ツ)一字ではいわない、ツノミツ神社とかツノミヤ神社なのである、ツノガノアラシトのツノなのである
それから相馬地方に荒(あら)という姓が多いのかということを尋ねる人がいる
その荒とはツノガノアラシトのアラなのである
だから地名化しているとかなるとその痕跡は残している
でも安曇氏はただ綿津見神社というのがそうだとしてもそうした痕跡がないのである
ただ相馬地域でなぜこれほど綿津見神社が多いのか?
多珂神社の近くにもあるしこの神社が一番相馬地域では目立つのである
ウィキペディア(Wikipedia)の多珂神社の説明では多珂を鷹として伝説を伝えている
それは高倉でもそうである、でも鷹と何の関係があるのか?
これは地名伝説が後から創作が多いように作られたものが多いと同じでそうなったのか?多珂神社とは多賀神社に由来していて鷹とは関係ないからである
高倉も多珂郷がありそれが波及して名付けられたのだろうとなる
それにしても多珂神社は立派である、式内神社として指定されたことでもわかる
鹿島神社とかも立派だかそれに劣らず立派だし大きいのである
だからそこも何かこの地域で古代に中心的な役割を果たした場なのかとなる
磐城大田の駅の近くであり電車からいつもあの鳥居を見ていたのだがそこに多珂神社があることを知らなかったのである
灯台下暗しとなるのが郷土史でも多い、それと私は自転車だから坂を避けていて行かなかったということはある、最近買った電動自転車は坂でも上りやすいのと機動力があり行動範囲が広がったのである、ただ年で疲れるのは同じである
でもそれを補うものがこの電動自転車にはあったから行けたとなる
【古代-陸奥の真野郷-その他の最新記事】
- 相模武蔵の古代史から解明される中央政権と..
- 南相馬市鹿島区浮田国造の謎 (地名..
- 只野氏が語る家の歴史 (安積氏と平..
- 安曇氏が鉄生産にかかわり日本列島開拓した..
- 南相馬市の原町区に綿津見神社が多いのはな..
- 真野の草原は大和王権の蝦夷征服の前進基地..
- 南相馬市の古代史ー浮田国造(毛野氏)から..
- 南相馬市の多珂神社の隣のスダシイ神社につ..
- なぜ南相馬市と相馬市に綿津見神社と山津見..
- 真野の草原は自然境界でもあった (..
- 陸奥の真野の草原が地質的にも境目だった ..
- 真野の草原は気候の境目 (石巻説は..
- 俘囚とされた蝦夷(エソ)が大量に全国に移..
- 国(くに)とは何なのか? (古代か..
- 山津見神⇒羽山津見神(羽山戸神)の関係 ..
- 真野の草原(かやはら)は境界線 (..
- 鉄の産地だった猪苗代湖の湖南地域 ..
- 日本海から会津の古代の歴史(1) ..
- みちのく真野の草原は気候の境界 (..
- 温暖化でネッタイシマカが東北で生息する範..