老人は過去を昔を語ることに役割がある
(でもそれを受け止める場や共同体がないと活きない)
本来なら老人は、>人生経験を積み様々な知識と知恵も持っています。それを次の世代に伝えていくことは、老人の役割として大事なことであるはず。
市場社会が進行し共同体が破壊されると、根無し草の労働者は定年になると同時に社会的役割から除外され、年金頼みの生活しかなく、家庭の中ではお払い箱・厄介もの扱い。さらには福祉施設に押し込まれ、あらゆる生産的活動からも遮断されてしまう。
老人には老人の役割がある、役割があったとなる、それが喪失したのも現代である
老人の役割は昔をこれまで生きたことを語ることにあった
それが昔話になりそれも歴史であった
その語ることが極端になると認知症になると若い時のことは忘れられないから遂に千回も同じことを語る、それで嫌になったがその語ることが生きたことだったからそうなったのである
姉の場合は従軍看護婦として今のマレーシアのシンガポールから橋を渡ったジョホールバルで四年間地獄の苦しみを受けた、だからそのことがどうしても忘れられなかったのである
それでそのことを死ぬ直前まで語っていたのである
でも語るという時、それを聞く人、受ける人が必要になる
それが現代では欠けているのである、世代間でも断絶しているのである
そせそも現代社会はあらゆるものが分離してパーツ化している
子供は年代ごとに分類される老人もまた分離されて隔離されて収容される
昔の村だったらそこでは長老とかいたり子供も若い世代も一つの村の中に生活していたのである
だから老人でもその村の中で生き続けやがて死んでゆくがその後も村の中で生き続ける
世代間の連続性があった、そこで語ることも受け止める人があり伝えられる
囲炉裏を囲んで老人は孫たちに語ったりしていた
語るにもそういう場が必要なのである
そういう場がないと語ることも活きてはこないのである
会社で60年とか働いて退職するともうその人のいる場が消える
なぜなら会社を退職して地域で生きろといってもその連続性がないから語る場がなくなるもし死ぬまで会社にいるならそうはならない、会社は一過性で消えるものも多くなっている、銀行すら消失するとなるとそこで連続性は断たれる
老人はその人生を語ることなのだがそれを受け止めるコミニュティとか場とかないと活きてこないのである
語ることは何か文章にするのとか違っている、語ることはまた女性が得意なのである
だから語り部とかに向いている、話がうまいのである
そういう人を知っている、とにかく話だけはうまいのである
それで欠点としては口だけの人だともなる、何か口からでまかせだともなる
でもその人がこういうことで働いて苦労したとかいろいろ語る時、その人は故郷で生きてきたから故郷という場がありそれを聞いているのも受け止めるのも故郷に住んでいるからこそできるとなる
もしそういう場がなかったらいくら話しても活きてこないだろう
例えば今南相馬市から青森の老人ホームに送られ人が多い
でもそういうふうに離れるともう故郷とは別な世界になり何か語るにしても活きてこないということがある
ただ語るにしても人間はいろいろであり語るべき人生であったのかともなる
やはり老人が語り重みがあるというときそれだけの人生を生きたということで重みがでる例えば私はFXでデイトレダ―で億万長者になったとか聞かされてもつまらないとなる
老人の価値も今では金で計られるとしても過去を語る時もし何か波乱万丈の人生を送ったりするとそれに耳を傾ける若い人がはいる
それで面白いのはヤップ島の石の貨幣があるがそれが海に沈んで取り出した時、その苦労を語りその石の貨幣の価値がその語りによって価値があがってくるというのである
つまりそういうふうに語れるものがありそれが価値となっていたのである
老人の価値もそうである、どれだけ語れるものがあるかでその老人の価値を計るということもある
何か語るということは語る時人は全身で感情をこめて語るから文章にするのとは違う
そこに深い思いがあり語るのである、なんかyoutubeではその個々人の語りが活きている
そして語りだとわかりやすいからつまらないものでも見る人が多いのである
文章を読むことはかなり疲れるからである
だからテキストの時代からyoutubeの語りの時代に入ったという人もいる
本当に武田邦彦氏などは語るのがうまいと思う
だから個人で10万とか見られるのはやはり語りがうまいからだとなる
私も老人にしてもこんなに毎日書いているのは語りたいということがある
語り表現したいことがありそうなる、それが簡単にできるのでこんなに延々と書いているのである、ただ自分の場合は話すのが下手だからyoutubeには向いていない
テキストで流すのならいいが向いていない
文章には語るよりもっと深いものを表現できる
ただテレビが依然として人気があるのは表現がわかりやすくしているからである
語りであり文章ではないからである、そうなるとみんな知識人でもないから見る
ある特定の知識人相手ではない、大衆が相手だからである
万葉集が令和の新元号で話題になったとき人気になったというときもそうである
それを大衆向きに面白おかしく説明する
そこにどうししても浅薄なものとなるがそれも関係ない、大衆向きの娯楽のように放送しないとみんな見ないからである
要するにテレビはパンとサーカスなのである、もともと馬鹿を相手にしているという感覚なのである、それで肝心なものが放送されなかったり議論されないのである
ともかく膨大に老人ばかり増えてくると老人の価値は減退する
寿命が60年とかの時代はそうして生き残った老人は価値が自ずとあった
今はない、むしろ早く死んでくれとかなっているだけである
ただ昔から老人にも役割があり価値があり村という共同体の中では活かされていたことは確かである、その時でもやはり貧乏だから食わされないとかの問題はあった
でもたいがい長生きするのはまれだから老人の役割はあり活かされていたともみる
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