2019年04月04日

真野の草原の歌の笠女郎は近江出身説が有力になった (草津と栗東市内にある地名の移動が顕著)

              
真野の草原の歌の笠女郎は近江出身説が有力になった

(草津と栗東市内にある地名の移動が顕著)

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遺跡出土地点
鉄生産のセンター、本拠地(行方郡(真野郷)宇多郡と深く関係)

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●地名は伝播する

地名はいろいろあるにしろ古代の地名は伝播した地名が多い
縄文人が住んでいたとしてインディアンのようにアイヌ語の地名があるとしてそれもあるでも古代においては地名は遠くから韓国からの渡来民もいて伝播して地名化する
だから何か類似の地名が日本全国に生まれる
地名も他所から人が移ってきてもたらされたのである
神でも風習でも元を正せば他から移動している
神話とかいろいろな昔話でも元をたどると日本だけではない世界共通なものが見られのはそのためである、羽衣伝説などがそうである
渡来人がもたらしたものが技術でもそうでありそれに神々も人と一緒に移動してくるのである


大鳥神社は、全国の大鳥神社の本社とされる。式内社(名神大)、和泉国一宮で、旧社格は官幣大社(現、神社本庁の別表神社)。「延喜式」神名帳には「大鳥神社名神大、月次新嘗」と見え、和泉国唯一の神名大社となっている。延喜22年(922年)の奥付を持ち内容的には鎌倉時代の様子を表したものと推定される『大鳥神社流記帳』には、同郡の式内社の大鳥美波比神社・大鳥鍬靫神社・大鳥井瀬神社・大鳥浜神社とともに「大鳥五社」の集合が見られる

大鳥北浜(鍬靱)神社:吉備穴戸武媛命 (日本武尊の妃)
大鳥羽衣浜神社  :両道入媛命 (日本武尊の妃)
大鳥井瀬神社   :弟橘姫命 (日本武尊の妃)

和邇氏諸氏とは都怒山臣(角山つのやま君)・小野臣・近淡海国造の三氏であり、いずれも継体擁立に深く関わる重要氏族である。

その本来の出自としては、海神族(海祇族)の祖神綿津見豊玉彦命の嫡統で阿曇連と同族であり(奴国王の後裔でその嫡流ではないかと推される)、「ワニ」は鰐(トーテム集団の象徴)を意味するものと考えている。これが、和邇氏が長期間にわたって多くの后妃を輩出し、天武十三年十一月の朝臣賜姓五十二氏において、大三輪君(旧来の大和地方の支配者大物主命の後裔)に次いで第二番目にこの氏族の本宗家とみられる大春日臣が挙げられている主因の一つであろう。

近江国 近江栗太 安羅神社「天日槍命」滋賀県草津市穴村町

日本書紀に「素戔鳴尊、新羅国に到り、埴土を以て舟に作りて、出雲国に到る」とあり。埴土(はにつち)は鉄を含んだ赤い土で製鉄の原料である。埴土で鉄器(丸)を作り、その鉄器で舟を作ることから、船に「□□丸」と名付ける。刀剣の「□□丸」などの名にも用いられる。また、丸は両刃の刀と合口の意味で、鰐(わに)の歯に似ていることから丸(わに)と称す。古事記に「日子穂穂手見命は鰐の背に乗って海神宮から帰ったが、その鰐に紐小刀をつけて送り返したので、鰐を佐比持神(さひもちのかみ)と称した」と。日本書紀に「神武天皇の兄の稲飯命は、剣を抜いて海に入り、鋤持神(さひもちのかみ)となった」とあり。サヒは古代朝鮮語で鋤(すき)または剣を意味するが、同時に鋭い歯をもった鰐を意味する。対馬国鰐浦村は海洋民鍛人の渡来地にて、古くは和珥津(わにのつ)、和邇津(わにのつ)、鰐乃津(わにのつ)と称した。≫

南相馬市の鹿島区に烏崎があるけどもともとは烏浜(からすはま)だった、とするとこれも近江から移動してきたのかもしれない、烏アはあとから名付けられたからである
そして石巻にある鰐山がある、それは和邇氏のことである
そこにも真野という地名があり萱原の地名がある
南相馬市鹿島区の海老村があるがこれも移動地名だったかもしれない
エヒであり蝦夷のことだと前に指摘した

でも行方郡は常陸国行方郡と同一名であり、両地域間には多数の同一字
名があることも重要である(鈴木 2009)。→小鶴・島田・馬場・宮田・井田・根本・海老沢・鹿島・太田・太田和・大谷大野・小高・大甕・泉・牛渡・村上・大井・岡田・石上・五台・真野・信太・小池」 

小鶴があり馬場があり石上があり真野があり海老沢がある、その地名も鹿島区だと海老沢→海老村になり小池→小池村となりとその地名移動だとなる、大谷村もありこれらの地名は移動したともなるのか?井田があれば井田川があるからである
そして島田というのは泉官が跡から木簡として字が書かれていたのである
ただ南相馬市にはその郷名はなかったが常陸の島田郷から移動してきた人がいて記したとるのは間違いないとなるからだ

そして近江の地名を調べると秋田城木簡に秘めた万葉集 大伴家持と笠女郎」吉田金彦が笠女郎(かさのいらつめ)が近江の出身だということを地名から解き明かしている
それも地名だけではない裏付けが考古学的な発見であった

となると近江から地名が移動したともなる、つまり草原(かやはら)は移動地名だったのかとなる、

萱野神社

彦坐王命の第四世にあたる治田の連が、栗太郡一円の開発にあたり雄略天皇六年、遠祖の開化天皇を祀ったことに始まると伝えられています。

萱野というときこれは由緒ある神社があり地名であるからこれは伽耶国と関係しているかもしれない、他に大萱とかあるがこれも大草郷があり何かそこも伽耶と関係していることもある
角山(つのやま)となれば伽耶国の王子ツノガノアラシトをとった名だとなる
近江だとそういうことは色濃く反映して残っている
それだけ歴史の層が厚いし渡来人の足跡が深く刻まれているからである

ただ地名だと裏付けがなくただイメージだけで推察するからかなりの過ちが起きる、でも今回その裏付けが考古学的は発見で得たのである
つまり近江の栗東市の栗太郡衙があるまた大津周辺地域の考古学的発掘で宇多郡と行方郡そして真野郷地域が密接な関係があった
鉄の生産を通じて工人がその地域と行き来していたのである
つまりその近江の栗太郡は笠という地名がありそれは広い範囲をさすものであり吉備からの笠氏が移動して勢力を広めた地域だったとしている

この草津と隣の栗東市は交通の要所であり古代でもそうだった、そこに鉄生産のセンターが本拠地があり現実に工人が行き来していたのである
そうなれば当然、みちのくの真野の草原(かやはら)は遠い地としてもこの辺では十分に知られた土地だったのである
なぜなら生きた人間が行き来していたからである


それで笠女郎はここが故郷でありここの出身だとなればそれが裏付けられることになる
地名だけではない次と考古学的に裏付けられたものを検討する    

行方郡に

吉名郷、大江(大井)郷、多珂郷、子鶴郷、真吹郷、真野郷 

大江郷がありこれも栗東市の草津市の中にありそういう地名が移動してきて行方郡の郷名になった、また常陸国から移動してきて名付けられた、吉名とは小高とされているが物部吉名という人が現実にいたのである、だからこれは物部氏が支配した地域となる
そして原町の桜井古墳の主は物部氏とされているのである
高野郷というとき高野新笠がいて高野神社があり製鉄にかかわった、新笠だからやはり笠氏一族なのである

高野朝臣姓は、乙継と新笠の父娘2人にのみ賜姓されたとみられ、一族は朝臣姓とはなったものの、高野朝臣姓にはならなかった。乙継は続紀に生前の記事はないことから既に没しており、生者は新笠のみが賜姓された可能性もある。夫である天皇から妻への稀有な賜姓の例といえる[12]。天皇の妃嬪である新笠の姓は子孫に継がれなかった。

高野」の字(あざな)は、現在の奈良市高の原に比定される。高野近傍には土師氏の本拠地である菅原伏見、また秋篠がある。新笠に賜姓が行われたという宝亀年間、この地に孝謙・称徳天皇の陵(高野陵)がおかれたばかりであり、孝謙・称徳天皇はこの陵の地により「高野天皇」、「高野姫天皇」と称されている。瀧浪貞子によれば、高野朝臣への改賜姓は、宝亀3年(772年)に聖武天皇の血統である皇后・井上内親王、皇太子・他戸親王が廃され、山部親王(桓武天皇)立太子されたことに係るもので、新たな皇太子の母・新笠が聖武天皇嫡女の孝謙・称徳天皇に縁の姓に改めることは、皇太子を正当化するための措置、すなわち母を介して聖武皇統に繋がるための擬制的な作為だったのではないか、としている[12]。

大枝陵と母方への大枝賜姓

新笠の陵所と、母・真妹及び一族へ与えられた姓が同じ「大枝」であることから、真妹の居住地は山背国乙訓郡大枝であり、当時の招婿婚の習慣から新笠もそこで生まれ育ち、それが桓武天皇の山背国への遷都、特に大枝に近い長岡京への遷都の誘因となったとの説がある

吉名郷、大江郷、多珂郷、真野郷は近江に関係している、吉名は不明でも物部氏と関係している、大江はやはり近江の瀬田地域に関係している、つまり地名の移動が栗東市と草津市にあるのが多いのである
そうなると真野の草原という地名も移動したとなる     
滋賀県栗東市苅原があり苅をカイと発音するともある

すると原町区の萱浜がカイハマが同じ発音だから草原(かやはら)に通じているのかとなる
確かなことは地名の移動がありそして濃厚に近江の草津と栗東近辺にある
そしてその辺に笠地名が多いということはやはりそこと行方郡とか宇多郡が鉄の生産で密接に結びついて現実に生身の人間が行き来していたとなると何かこの真野の草原がリアルにイメージされてくるのである 
萱が伽耶に通じ駒は高麗ー高句麗に通じている、それで常陸国に高麗原がある、だから伽耶国から草原(かやはら)となっても不思議ではない、ただ地名としてはここには萱浜はあるがもともとカイと発音していたからどうなるのかともなる
その場所も真野郷内ではないからだ

次はその考古学で発見されたものからの裏付けになる、その論文もでていたので解読することになる 

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(秋田城木簡に秘めた万葉集ー大伴家持と笠女郎ー吉田金彦)

ここで吉備から笠氏がこの地に移動して勢力を広げた結果としてこれだけこ笠地名があり広い範囲で支配していた証拠としている
その辺の地名が陸奥の行方郡に移動ししてきたのである、それは常陸国経由にもなる

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