南相馬市の高平の西殿の地名は泉官衙跡に由来するのか?
(方角地名はどこが中心で方角が決められるのかが肝心)
●方角地名が世界的にも基本
方角地名が地名でベースになるのは人間にとって見知らぬ土地に行ったとき必ず方角がわからなくなる、それで太陽の昇る方向とか沈む方向とかみる、または星を見る
星がなぜイスラム圏とか大陸で大事になるかというと北極星信仰が生まれたか?
北極星は変わらない定点になっていたからである
それで妙見信仰も生れた、それは北極星信仰であり大陸から入ってきた信仰なのである
遊牧民地帯では常に移動するから目印となるものが必要になる
それが北極星になっていたからイスラムとか砂漠の国や草原とか大陸の国の国旗は星印になる
太陽でも東は日向う(ひゅうが)とからきている、西はイニシで去る方向なのである
それで日立木に日下石」にっけし)があるがそこが西の意味としたときそこが一時津波で海が迫ってきた場だった
ではなぜ海側が西になるのか?それは海から来た人たちがそこに海が迫っていたとき太陽が沈む方向だとして西と名付けたと予測する
なぜならこの辺でなぜこれほど綿津見神社が多いのか?
それは安曇族などの海人族が移動してきたからである、それは海を渡る渡津見の神だったのである、渡ることを海を移動する民だったのである
そういう人たちが来たときそういう名前がついたと予測される
それは一つの説にしてもそういう説明になる
●西殿の起源は泉官衙跡から来ているのか?
泉官衙(南相馬市に躍動する古代の郡役所ー泉官衙遺跡)より
ここは相当に大きな郡役所だった、ただ方角的に西殿が今の西殿の方面にあたるかどうかはわかりにくい
方角地名で一番の問題はでは南とか北とか東とか西とあるときどこを中心にしてそう決めるのか?それが一番の問題なのである
南相馬市の高平の西殿というのもそうである
もし西殿よりさらに西になれば東殿ともなるからである、現実にそういうことはある
御屋敷、堀、上の坪、中の坪、東殿、西殿、上屋敷、国府殿、四郎殿とな っている 。 宝永 4(1707)年10月14日、紀州沖地擬により 、
大津波が押し寄せ、部落のほとんどが被害をこうむり田畑は砂で埋没したため、年貢米は 5年間赦免されている。 さらに、安政元年 (1854)11月 4日、遠州灘地擬による津波は高さ 10mにも及ぴ、堤防は全壊し部落はほとんど水没した。 しかし、道路が整備され、屋敷囲に根を植えている国府では死人はなく、家屋の被害はすくなかった。国府の歴史は、津波との戦いの歴史ではなかったのではなかろうか。津波の後は、その恐れから、家屋を小高い丘に移し、また便利な平坦地にもどる。その繰り返しをして、部落の移動がたぴたぴ行われていたものと思われる 。
ここに国府があり国府となる所に役所となる建物があり東殿―西殿と地名化した
国府となると正殿がありその東と西に脇殿として建物が建てられた
西脇殿とか東脇殿とかなる
溜池を挟んで東側の台地上にも周囲に土塁を巡らせた城館がある。こちらが西殿という場所であるらしい。60m×80mほどの長方形の郭であるが、所々土塁が分断されている。しかし、旧状を想像することは容易である。溜池側には2段ほどの腰曲輪的な削平地がある。城塁を削っているので、これらの部分も城郭遺構であると思われる。この2つはどちらも、戦国以の初期の居館というイメージである。
つまり原町区の西殿という地名はいつ頃から生まれたのか?
それは鎌倉時代時代以降と推測した、それは相馬氏が古くからが住んだ記録に残るからである
でも泉泉官衙跡が海に近くありそこに古代の役所があった、するとここにあるように国府がありそこに写真のように中心の建物があり西脇殿と東脇殿があってその名があって古代から西殿と名付けられたともなる、ただ西殿はその時は今の地点ではない
これは考古学の発見がありそれを調べないとわからない
ただ西殿とか東殿は戦国時代にもあるがインタ−ネットで調べた城でもあった
だから古代から西殿という名が伝えられたということでもない
国府とか郡衙になるとそういうことがありうる、事実いわき市にはそうした地名が残っている
(根岸郡衙跡)
郡の政治を行う中心の場所です。根岸遺跡では、正殿(せいでん)・東脇殿(ひがしわきでん)・西脇殿(にしわきでん)の三つの建物が中心の広場を囲むように建てられていました。
いわき市にも西殿がある、西殿は殿は古代の政庁跡にある、殿から館になったとき中世に変わったが依然として殿が使われていた
つまり地名の起源は古代にまでさかのぼり古い!
南相馬市原町区高平の五輪の塔の謎 (南北朝に由来して西殿は相馬氏の館があった所)
●なぜ南柚木(みなみゆのき)というのか?
村の名で検索すると村の領域がグーグルで表示されるから便利
「この辺は何村ですか」
「坪田です」
「なかなかどの辺までは坪田村なのかわかりにくいです」
「坪田があり八幡があり成田がある、八幡は八幡神社があるからだよ」
なぜ村の範囲がわかりにくいのか?それは江戸時代なら村ごとに年貢を納めていたし村が行政の単位であり村ごとに人は結束して生活していた
それがなくなったとき村の範囲はあいまいになったのである
「柚木(ゆぬき)は南柚木と北柚木がある」
「柚木が相馬市でも鹿島のように思う人もいる、まぎらわしい」
「柚木は南柚木と言って北柚木とは言わない」
「方角地名となるとどこが中心かで方角が変わる、相馬藩は小高にまず相馬氏が城を置いた、だから小高から北が北郷になる、相馬市に(中村に)城を移した時、その城が中心になって南になるから南柚木となった、北柚木とは言わない」
「そういうことか」
「それで鹿島は北郷であり北郷と宇多郷が野馬追の時、雲雀が原に出陣するとき一体化して合流して向かうことになった
南相馬市となったのは相馬市の城から南だからそうなった」
「なるほど・・・」
方角地名で問題なのはどこを中心にして南北朝とか北としているのかである
歴史的にも中心が変わるからである、鹿島区は北郷(きたごう)であるがなぜなのか?
それはもともと小高に相馬氏の城が置かれてそこから北になっていたからなのである
となると歴史を知らないとまた方角地名はわからない、単に南北とあっても歴史によって方角が違ってくる
どこが中心かというとき韓国では日本海は東海なのである、韓国側から見ると東の海になる、それこは韓国中心で見るからである
日本がを中心にして見れば日本海なのである
だからどこを中心にして方角地名が名付けられるのかが問題になる、それは歴史的なものとも関係している
韓国側にすると日本海となれば日本の海だとなりそのことで世界的にそれは違うと訴えて裁判までになる
地名でも国際問題になるのである
南柚木が北柚木と言わないという時、それは相馬市に城がありそこから見て南になるからである
方角地名で大事なのはどこが中心にして東西南北になるかなのである
相馬氏が進出したとき北郷はさけて大原とか小池から相馬市地域、前の中村地域に進出して城を建てた
柚木(ゆぬき)もそうして相馬氏の領地となった、その時北郷は相馬氏の領地にならなかった、支配地にならなかった経緯がある
そういう歴史的経緯があって方角地名が名付けられている、単に南北とかではないのである
だからなぜ南相馬市と合併したのか?
それはすでに相馬市に相馬氏の城がありそこを中心にして名付けられたのである
それで南相馬市はやがて相馬市として合併するとも言われたのである
ただ歴史的北郷(きたごう)は変わらず残っているのである、でもその歴史を知らないと理解できないのである
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