2019年04月27日

固定観念を破らないと生きていけなくなる (変化に対応できない者は生きていけない?)


固定観念を破らないと生きていけなくなる

(変化に対応できない者は生きていけない?)

「こうするのが当たり前」と思っていることが実は当たり前ではない、ということはよくあります。
私たちはそれぞれに異なる過去を辿ってきました。
そうした異なる過去で身に着けた常識、それにこだわることを固定観念と呼びましょう。

人間はなぜ固定観念化するのか?

●地理
●時代
●家庭環境ー生い立ち  

基本的にはこの三つの影響が大きい、まず地理のことを再三語ってきたけど地理は一番わかりにくい、それは地図を見たってわからない、グーグルで山があるとしてその山がどれだけ深い森が延々とつづいているかなど表示できない、それは経験しないかぎりできない近くでも山は延々と森で覆われて出口もなかったのである

地理が何か一番固定観念を作り安い、だから人間は狭い場所で生活しているからその小さい世界で一つの世界観が生まれる、国単位なら日本は島国の世界観が生まれる
そして島国でも様々な地域の風土があり地勢がありそこで世界を見る
太平洋側だと海から太陽が昇るとなり山に沈むというのをいつも見ている
すると世界はそういうものだと固定観念が自然と作られる
でも日本でも日本海になると海に太陽は沈むし山から太陽が昇り山に沈む地域も多いのである、日本がには盆地が多いからである
それで旅行すると全く違った世界を地理から知るのである
固定観念がそこで破られるのである

また時代が違うとそこで経験することはまるで違ったものになる
江戸時代に生きた者と明治以降に生きたものとはまるで違った世界を生きているのである戦前を生きた者と戦後を生きたものでもそうである
だから江戸時代から明治を生きた者はその時代に適応するのに苦労する
侍は侍でなくなり威張っていられないとかいろいろ激しい変化があり戸惑うのである
何か人間の社会も70年サイクルで急激に変化する
明治維新から70年で太平洋戦争があり戦争が終わり高度成長時代に向かった
それが団塊の世代だった
そして70年過ぎてまた大きな変革の時代を迎えている
日本はおそらくそういう変革の時代に再びあるのだがそれがまだ意識されていないのだろう、でも否応なく変革は迫られてそれに適応できないものは滅びてゆくとなる

銀行なども特に地銀とかゆうちょとかなると地域に根ざしたものであり信頼されていた
それは時代がそうしたのである、確実に利子がついている時代は銀行は信頼されていた
銀行が潰れるなどありえないことだった、でもバブルとかで銀行が潰れたことがあった
銀行もつぶれるのてある
最近は銀行は半分に減るとか存亡の危機になっている
それでも地銀とかが投資信託を売りに来ておばあちゃんが一千万とか損したが
それでも銀行を信用していたということでもわかる
老人はこれまで生きてきた経験から固定観念がありそれで判断するからである
自分自身もそうだったのである、銀行は信用できるという固定観念を植え付けられていただから地銀の人が投資信託をすすめたとき信用したのである
株でも投資信託でも証券のことなど自分は知らなかった
でも銀行員を信用していたのである、それが根本的に間違いだったのである
時代が変わっていたことを知らなかった、時代は急速に変わることがあるからだ

AIとかが良く語られる時代になりベーシックインカムが空想ではなく現実問題として語られる、現実にベーシックインカムを実行した国もある
そうして人間は働かずみんな芸術家になるとか言うのも本当に理解できない
なぜなら高度成長時代は団塊の世代は企業戦士として猛烈に働いたからである
その時自分自身は働いていない、ただその時ニートなどはいない
引きこもりもいない、いたとしてもほんのわずかでありそんな人はいたこともわからないのである
でも今になるとニートとか引きこもりの数が多くなったから話題になる

働くということは別に江戸時代から明治時代から戦後でも強力な否定できない価値観だったのである、働かざる者食うべからずだったのである
大正生まれの私の母は働くことしかない、それで花とかに興味もないし一切趣味もない
働くことだけしかなかったのである、これも異常だった
そういう環境にあったということも影響した、貧乏だから趣味などもてなかったのであるだから本当に時代が変わると価値観ががらりと変わることに驚くのである

アリとキリギリスの話があるけどキリギリスは常に否定されてきた、蟻のように働いて貯えろというのが普通の常識だったのである
でもみんなAIと機械化でアーティストになるというときキリギリスになれとはいうことなのである、キリギリスになれない者は歌を歌いないとか何か趣味もないとか個性を表現できないとかできない人は価値がない、蟻はいらない、それはAIや機械がするとなるからだそういう変化にもみんなが気づいているわけではない、そうなると今までの生活全般、教育でもなんでも見直すことになるからだ
今までの固定観念から判断できないからである 

固定観念というとき家庭環境とか生い立ちも影響してくる、みんな同じようで育った環境とか生い立ちが違うから人はみんな違っている、何か自分は普通でない家庭環境で育ったから正常な家庭でないから奇妙なものとなった
家庭環境がやはりいつもそこで生活しているのだから影響が大きい
自分自身は働くことを強制されなかった、だから働かないし自由に旅行していただけだとなる、それもとがめられることもなかったのである、その結果として介護とか自分自身の病気とかで塗炭の苦しみを受けたのである
それは今のニートが40代以上とかなり親が老いて死んだりすると自分と同じような結果になる
それは想像もつかない厳しい状態に追い込まれることは眼に見えているのだ
誰もその時助けないからである、お前は遊んでいただけだからともなる
つまり人間はなにかしらなんであれカルマを積んでいない人はいないのである
その清算が60以降に必ず強いられる、逃れることができないのである
人間の生い立ちというとき家族でも兄弟でも姉妹でもまるで違った運命をたどることが普通にある
家族ですらそうなら他人になるとさらに生い立ちとか家庭環境が違うと理解しにくくなるのである

なぜなら自分の育った環境とか生い立ちが固定観念となる、異常な家族でもそれがその人にとってはそうして育ったのだから普通になる、家族とは異常でもそういうものだったと固定観念が作られるのである
固定観念はこうして強固に植え付けられるからこれから脱することは容易ではないのだ
それは例えばカルト宗教団体でもそこに入ったものはそこは異常でもそれが正常となる、その異常性に気づかないのである
そこに固定観念が強固に作られるからだ、だから外部の意見など聞かなくなる、批判すると集団的に罰当たるとか威嚇するようになるのである
科学でも固定観念を破ることは容易ではなかった、地動説から天動説を唱えたり様々な科学の発見でもそうである
それは強固に固定観念が作られているからだ、それを脱することができないからである
また固定観念を破らない限り新しい時代は生まれないし作れないのである

この辺で津波とか原発事故で起きたことでもそうである、田畑があり街があるとかそれは固定観念として変わらないものだと思っていた、それが田畑が荒地化して村や街が津波で消失するとかなるとそのあまりの変化に対応できないのである
そこで何か今まで違ったものを作れといっても簡単にはできないのである
第一田んぼにしたって千年とかの単位であったものでありそれがなくなるとういことは田舎ではイメージすらできなかったからであるそれでデザインとはザイン(在る)ものをdは否定する言葉の由来がある
デザインは今まで在るものを否定することから始まる、それは固定観念を破ることから始まるとなる
だから今までの街作りではなく新しいデザインで街でも村でも作るとなる
そうしなければ復興はない、流出した若い人も故郷に戻ってこないともなっている
それで小高のマルシェは新しいデザインで街中に憩いの場を作ったのであれは良かったなと思ったのである
それは今までにないものとして作られたからである  

めぐり 逢 ひ て   見 し や それとも   わか ぬ 間 に 雲隠れ に し   夜半 の 月かな      

月は常に満ち欠けして変化している、月は変化の象徴である
だからもともと暦は旧暦は月の変化を基に作られた、太陰歴である、外国は太陽暦である
日本文化の特徴として四季でも変化がはっきりしている、季節の変化が激しいのである
この歌は人間の出会いも次々に変わることを示唆している
自分自身の経験でもそうだった、家族がみんな死んで次々に人間関係も変わったからである
親戚関係は全部切れた、この世の人のめぐり会いもめまぐるしく変わるのである
無常の世界なのである、この辺では津波原発事故で信じられない無常を経験したのである

最近は特に暑くなったり寒くなったりする、今日はもう夏になるのに寒いのである
日本人は本質的に風土的に変化に適応しやすいのかもしれない、それはこうした気候の変化でも激しい風土から生まれているのかとなる
一方で北極星とかは不動であり変化しないもの定点にあり位置を知るのに信仰までになった
妙見信仰がそうである、この世は変化するものがありまた変化しないものも求めている
変化しないものにも価値がある、AI化でも見直されるのはかえって人間的なもの情的なものや人間の感性だとかなるとそれはもともと人間にあったものでありそれが見直されるとういこともある、ただかえってそうしてもともと人間にあったものが見直されるのでありすべてが変わるということでもないのである 





posted by 老鶯 at 10:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/185917736
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック