相馬藩の郷士の研究から判明した恐るべき事実
(25390人がか死亡逃散している―津波で700人溺死はとるにたりなかった!!!!)
郷士は在郷武士として苗字帯刀を許されながら農村に住んでいたが、京都奉町行所の例では、家ではなく、当主本人個人に免許され、子息も別に免許が必要とされた[7]。
享保のころから、帯刀が身分特権として確立すると帯刀権へのあこがれが生まれ、様々な由緒などを言い立て、役儀や非常時や儀式など非通常の帯刀権限を免許され、違反と常時化や子息や従者にまで拡大・延長する動きが起こり、
郷士研究の第一人者である木村礎は、郷士とは以下の特徴を併せ持っている場合が多いとした。
存続している藩(或いは知行地を持つ旗本・御家人)の家臣として正式に承認されている
城内で勤務する一般藩士とは明確に区別され、基本的に在郷している
所持地の全部または一部の領有を「知行」として認められ、その管理維持を生活の中心とする(地頭)
軍役については場合により異なる
従って事情により在郷任務を与えられているというだけで立場は一般藩士である者(薩摩藩の「中宿」や柳川藩の「在宅」)、陪臣にして在郷している者、上記で言及した名字帯刀は許されているが士分株は購入・譲渡していない者などは、郷士とは異なる存在に分類される。
江戸時代中期以降、財政厳しい水戸藩の状況を改めるため、献金により郷士に登用する、いわゆる献金郷士といわれる層が台頭した。菊池氏、緑川氏などがその例である。このように、藩の武力ないし財政力を支える目的で、様々な郷士登用の形、あるいは郷士身分の運用方法が生まれた。それら水戸藩郷士は、戦闘員たる郷士として特置郷士、救済郷士、非戦闘員たる郷士として旧族郷士、登用郷士に分けられ、藩の地方行政を支えるための身分層として用いられた。
蔵地と給地があり給地はいうまでもなく無税地でこれを耕作する時は武士として苗字名を附して取り扱われる
18世紀に入ると封建社会の封建社会の構造に経済的破綻が生じ、その結果武家社会に現れるのは二男、三男の浪人化と武士身分の売却慣習である
そのため米沢藩では彼らを郷村に放って郷士とした、相馬藩に置ける郷士取り立ては新田開発によって給地したのであるがこれは藩庫収入を目的としている
(右田は海側に開拓して作られた村である、だから比較的新しいのである、それから明治になって八沢浦がやはり失職した侍が開いた土地だったから明治以降でも新田開発はされていたのである)
農家対郷士は8498戸対1388戸、人口に対して52674人に対して9370人が郷士である
かかる多数の村落支配をもって取り締まりを徹底したから他藩にあって百姓一揆の頻発している時その発生は皆無であった、わずかに逃散があり主として餓死を待つ他なかった
つまり宝暦10年農家戸数8965戸、人口61114人だった、明暦では戸数7860戸であった
郷士は18パーセントいた
そして人口35785人で25390人が死亡逃散している
藩主ー家中ー本百姓
(相馬藩)
藩主ー家中ー給人ー本百姓ー(水呑百姓)
鈴木啓著ー「福島の歴史と考古」
これは何を語っているのか?何か重大な相馬藩の歴史の事実を語っている
やはり事実と統計的数がその実態を具体的に露わにしたのである
相馬藩は郷士が多い、郷士とは今でいう警官とか兵士の役目も担っていた
そういう人たちが農民に混じって暮らしていた、そうしたらとても一揆などできない
すぐに上の者に通報されるからである
つまり相馬藩では一揆がないから武士と庶民はうまく平和を保っていたというのではないのだ、それは他より多すぎた郷士によっておさえつけられていたのである
それは北朝鮮を見ればわかる、兵士の数が多すぎる、あれだけ貧乏なのに10人に1人くらいが兵士なのである、そういう人たちが農民とか庶民に交じっているからあれだけ不満があって飢餓になっても反抗できないのである、体制が維持されているのである
これからわかるように相馬藩の支配は郷士によって徹底されていたとなる
人口35785人で25390人が死亡逃散している!
これが事実てのだすうか?事実だとしたら空恐ろしいとならないか?
2539人の間違いとかこの本を読んで思ったがそうではない
でもこの事実は確認できるのか?
これから今回の津波のことを追求してきたが700人溺死とか相馬藩政記に記されていたがこれはとるにたらない数なのである
その時も津波前と津波後では収穫高が激減しているのだ
これは統計的数字の事実だから偽ることがてきない
つまりこれは何を意味しているのか?
津波の被害などは政治的にとるたりないものであり騒ぐこともなかったのである
何ら相馬藩ではそのために津波の被害に対して何もしていなかった
その時は戦国時代でありまだ戦乱があり政治が安定しないこともありただ二行しか記されなかったがそれくらいの事件であり相馬藩全体としてはとるにたらない災害であった
だからそれ以外なんら津波に関して記されていないしわからないのである
このことがまた後に今になっても大きな政治の失政として見直された
たとえ700人死んでとるにたらないでも津浪に関してもっと記しておけばそういう津波が来て700人死んだということで警戒したからである
つまりこれは江戸時代を賛美していたがその暗黒を数字が如実に語っている
そしてこの機に乗じて富商、町人のごときは士分を買収する有様であった
従って農民にとっては餓死の一歩手前に代官、富商、村落支配者を襲うことによって生命を保つ可能性は十分にあった
このように鈴木氏は指摘している、それでもこれだけ郷士が農民に相馬藩ではまじっていたので反抗できなかったのである、そのためにあえなく餓死してまた逃散する他なかったのである
これこそまさに歴史の事実であり真実である、そこに人間の過酷さ江戸時代の過酷さが如実に示されているのだ
私自身も病気になり弱った時、大金を盗まれたり事業に失敗した人が借金をかえすために金の要求をしてきて脅迫すらしてきた
それは相手も苦しいからでありまさにこの世の現実は弱肉強食であり身をもって経験したのである、津波の被害者いてその弱味につけこむ、それが現実である
この事実から比べると原発避難民などは本当にかえって得したともなる
これを言うと批判されるけどなぜ浪江に住んでいる人はあんなに楽天的なのか?
老後の金をもらってかえってみんな喜んでいるとかなっているのか?
それはこうした江戸時代の過酷な事実から比べれば理解できるのである
あとがき
宝暦の飢饉はあまり語られない、天明の飢饉では相馬藩は人口が三分の一に減った、宝暦の飢饉はそれほどの被害がなかったというのか?
これは事実なのかどうか疑うとなる、だから鈴木氏の研究が正しいのかどうかわからない、こういう事実があったとしたら大事件だからである
おそらく逃散はあったがそれは一時的抗議としての逃散であり領内から出て帰らないことではなかった
死亡した人がいたというがこの数は一時的逃散なのだろう、天明の飢饉は本当に三分の一が逃散とか死亡したことは歴史的事実である宝暦の飢饉はここまでの記録は残っていないからだ
次の大正時代の古い論文が参考になる、でもこれだけの人が相馬藩内で逃散したとしたら死んでいる人もかなりいた
その数はわからないが津波で溺死した700人というのはたいした数ではなかったということが当時の状況を見れば信じられるのである 一時的な逃散は数が膨大になっているからだ、そんなに逃散して帰ってこなかったらもう村自体が藩自体がつぶれる
事情は違うにしろ原発事故で避難してゴーストタウンになったのと同じである
コ川時代の農民逃散 Author(s) 黒正, 巖 Citation 經濟論叢 (1927), 24(1): 68-83 Issue Date 1927-01-01 URL https://doi.org/10.14989/128496
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