2019年04月30日

野馬追いが残ったのはなぜなのか? (相馬藩に郷士が多かったせいなのかー野馬追は軍事パレードだった)


野馬追いが残ったのはなぜなのか?

(相馬藩に郷士が多かったせいなのかー野馬追は軍事パレードだった)

なぜ野馬追いが相馬藩で残っていたのか?これも謎である
6万石の小藩なのに未だにあのような華麗な侍の行列が見られる
伊達藩は60万石であり他の大藩でもそうしたものが残されていないのである
今でも相馬市の城跡は何もない、貧弱なのである
会津とかでも大藩であり常に歴史が語られている、でも野馬追いのような行列はないのである、ここにしか侍がそのまま行列になるのは見られない不思議である

野馬追いとはそもそも何であったのか?

それは良く北朝鮮と中国でも軍事パレードをする、あれとにている
国の武力を誇示するものである
戦国時代なら余計にそうである、それで映画にしろ常に信長が美濃の斎藤道三に向けて行列して対面した
その行列は軍事パレードでありどれだけの装備があるから道三は見ていた
それで槍隊とか鉄砲隊とかを見ていた、そしてそれに目を見張って侮れないと見たのである

つまりこうした行列は軍事パレードであり国の力を誇示するものである
野馬追いもそれなのである、相馬藩は小藩であったが大藩の伊達と隣り合っていたから常に驚異にさらされていたのである
するとそれに対抗するには軍事力を見せつけないと対抗できない
そういう伝統がありまた津波のことで書いたように相馬藩には郷士が非常に多い藩だった18パーセントもいたということは多いのである
それも相馬藩の特殊な事情なのである、軍事力を高めるためにそうしたとなる
それは北朝鮮とかとにているのである、軍事国家として核をもち威嚇していないと他国に大国に責められるという恐怖がありそうしているからだ

相馬藩が伊達藩のような大藩に責められても支配されなかったのは軍事力だった
それももともと相馬氏は馬を調教する、馬をもってのしあがった一族である
馬は強力な兵器でもありそれが野馬追いの基である
モンゴルを見ればわかる、馬によって世界を征服したともなるからだ

本当に原町への長い街道を500騎の馬が行列するのは圧巻だった
そういう光景を実物として見れるのはここにしかないのである
でも戦国時代とかは参勤交代でもやはり藩の力を示す示威行為である
軍事パレードなのである、ただ平和の時代になりそれが祭りのようになったのである
でも参勤交代の行列も明らかに野馬追いの行列とにているのである
それは軍事パレードで藩の力を誇示するものだからである
それは戦国時代のつづきとして継続されていたのである 


posted by 老鶯 at 10:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 野馬追い関係
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