2019年06月02日

原発事故の復興は田んぼの復興なくしてありえなかった (蛙の鳴く声を聞いた時それを感じた)

        
原発事故の復興は田んぼの復興なくしてありえなかった

(蛙の鳴く声を聞いた時それを感じた)


陽はゆっくりと落ちてゆく

陽はゆっくりと落ちてゆく
急いではいけない
街からら離れた所
田んぼに苗は植えられた
あとは育つのを待つ
水はここに流れめぐる
蛙がのんびり鳴いている
黄菖蒲に光がそそぐ
明るく一日映えている
私はここで休む
陽はゆっくりと落ちてゆく
時計の刻む時ではない
陽のめぐる時に合わせる
ここは安らげる場
あなたは何を望むのか
その欲は限りなく
安らぐことはできない
ここは安らぐ場
一時は田んぼも蛙も消えた
また田んぼに蛙の声が聞こえる
それが田舎の幸せ
ここに落ち着くがよし
陽はゆっくりと落ちてゆく
私の生きる時間はもう少ない 
光を惜しみ時を惜しむ
そここそ汝のいる場なりしを・・・・


田んぼの畔の所にいたら陽がゆっくりと落ちてゆく、それほど暑いということもなかった何か蛙の声がこうして鳴いているのを聞く、蛙と田んぼは実は一体だったのである
なぜなら田んぼが一時は消えた、草ぼうぼうになって放置された
放射能汚染でそうなったのである
だから蛙の声も消えた、そして二三年前だったか、それより前だっか、蛙が一斉に夜鳴いて夜空にひびいたとき復興したなと感じた

田舎は第一田んぼがない田舎は考えられない、その田んぼは千年とかあるとなればもう田んぼは自然なのである、ただ今の世の中都会に住んでいる人も多いのだから別に田んぼを身近に感じないし、蛙の鳴く声が聞こえなくても普通である
でも田舎だったら蛙の声が聞こえなくなったら田舎なのかとなる
それで満月が出て田毎に映っているのを見るとなごむ
そういう風景は当たり前だったがこの辺では一時消失したのである
今でも原発避難区域だったところは無惨である、草ぼうぼうで田んぼは回復していないからだ
そこに荒涼としたものを感じる

田んぼ米をとるというだけではない、それはもう自然なのである、なぜなら田んぼがあって蛙が生きることができるし田んぼには多種な命が育まれているからだ
そこは詐欺の餌場になっている、それで鷺すら原発事故でいなくなったのである
それで50羽くらいの鷺が河原の竹藪に止まって寝ている時この辺は復興したと感じた

農本主義の未来を耕す(宇根豊)よりの抜粋

「蛙の鳴き声なんて一銭にもならないよ」
「今年から蛙が良く鳴く田んぼには、税金から対価が払われます」
「蛙の鳴き声を金に換えるほど堕落していない」
受け取りを拒否する百姓が少なくありません
「その金はあなたにあげるのでなく、蛙にあげるのです」
「この金を蛙がちゃっと鳴くことができるようにあなたが使ってくつださい」

ここでの例え話は蛙に金を払うというのは外からの目線である

「ああ、今年も代かき、田植えが始まったな、 蛙の声を聞くと張り合いがあるというか今年も忙しくなるなと思うな」

蛙が鳴くということに対価を払うのは外からの実際に田んぼを米を作る百姓の目線ではないとしている
確かに田んぼを回復したいというとき米を作り収入にしたいということがあった
原発事故ではもう放射能汚染で米を作れないという深刻な状態に陥ったからだ
今でも溜池の除染をしている、どうしても放射性物質が水として流れてくるからだ
米粒が白くセシウムに汚染されている写真を見た、また二本松の方で米を作る農家の人が原発事故以後農業ができないと自殺したこともあった

ここで著者がとりあげていることは自ら農業しているから内からの目線で語っている
ただ田んぼを回復することはただ米を元のようにとれるようにする経済的効果だけではない、蛙も生きられる場を再生することでもあった
田んぼとは人間が作ったものでもない、第二の自然と化していたからである
蛙でも多種な虫でも田んぼに生きていたからである、それを餌とする鷺が帰った来たというときこの辺は復興したと感じたことでもわかる
自然の復興でもあった、田んぼの持っている意味は米が食料がとれるというだけではないのである
まず田畑がない田舎は田舎なのかとなる、畑に花が映えているときもそうである
カンナは大きな花だから特に映えたのである、そこになごみがある
ただ自分自身が実は田舎に住んでいても農業しているわけではないから外からの目線で見ている、だからこの著者のような内からの目線になっていないのである、田舎に住んでいても今農業にたずさわるものは一割と実際は少ないから農業のことを知らない人が多いのである、でもいつも田畑を見ているということだけで都会の人とは違っているのである

ただこの辺が原発事故で放射性物質に汚染されたとき田畑も作れなくなったときかえって外からの目線も必要になった
蛙も住めるようにする田んぼの回復が必要であり蛙が生きるために金を払う必要もこの議論で感じた、外からの目線でもそこに金を投資して自然を維持するという感覚をもつべきだとなったのである
それで趣味で畑で野菜を作ったいる女性に肥料代とか種とか道具類とか援助したのはやはり畑でも田んぼと同じように見ていたからである
回りが草ぼうぼうになっているとき畑があった方がいいと思ったからである
でもそこでとれる野菜はわずかでありキュウリ二三本しかもらっていない、そしてその人は腰が悪いとかなんとか草むしりでもするのが負担になっている
その畑から収入にはならないからである
その人は第一いつも金に困っている人だからわずかでも金になる仕事をすればいいと思っている、でもその人は農業をしたいのである
ただそれを援助するとなると自分自身も大変なのである、何もしてもらわないのに金だけ要求されているからだ

でもなぜ草ぼうぼうの荒地にしておくのか?土地はほとんど無料で貸ししてもらえる
でもやる人がいない、ただ浪江の復興住宅に住んでいる人が土地を借りて野菜を作っていた、あの人たちもなにもしないから畑で野菜作りすればいいとも思う
いづれにしろ田舎だとまず田畑が復興しないと復興したという感覚にならないのである

もちろんロボット工場とドローン工場とかを作り工業地帯にするのもわかる
でも基本的にベースとして田舎だと田畑を復興しないと田舎の復興はないと感じるのである、それが草茫々の荒地となっていることが荒涼としてくる
だから川岸に黄色の菖蒲が一杯咲き畑に女性の笑い声がひびいたとき何か元に戻ったなとか平和が戻ったとか感じたのである
ただここだけではない耕作放棄地とか跡継ぎがないとか日本全体の問題である
でもこれから農業の復興があるかもしれない、なぜなら日本は電気産業とか他に科学技術のグロ−バル競争に敗れ貧困化する
すると食料すら輸入できなくなる、すると自国で生産するほかなくなるからだ
その時荒地でも利用して食料を生産するほかないとなる、それは戦争に負けたとき引揚者がそうしした荒地に開墾に入ったからである、そういうことがこれから起きてくるかもしれない、つまり日本の貧困はますます厳しくなってくるからである


posted by 老鶯 at 11:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連
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