2019年06月04日

引きこもりをプラスに考える、精神の修行に向ける (寺とか修道院とかは引きこもりの場だったのでは?)


引きこもりをプラスに考える、精神の修行に向ける

(寺とか修道院とかは引きこもりの場だったのでは?)

引きこもりに興味があるのは自分自身がそうだったからである
なぜ自分がそうなったのか?
それは何度も言うように特殊な家庭環境でそれが許されたからである
例えば事務次官の40代の引きこもりが殺されたけど別に息子のことを許容して金を与えていれば何にも起こらないかもしれない、事件も起こらないかもしれない
ただ前にも書いたように小人閑居して不善を成すというのが普通にある
いかにそうして暇が与えられたとき別に引きこもりだけではない、この辺では原発避難者が暇になり毎日パチンコにギャンブルに興じて顰蹙をかったようになる
でももし引きこもりでも一人で学問とか芸術に精進していたらどうなるのか?
それが世間に認められないがそうしている人もいるからだ
それは自分自身だったとなる、それが無用の人となるのか?

ただニーチェでもヘルダーリンでも狂気にいたった、でもその思想とか詩は後世に残る素晴らしいものだったのである、ただなかなか認められなかったのである
ヘルダーリンの塔とかありそこに狂気になり閉じこもっていた
それはまさに「引きこもりの塔」だったのである
そこでも詩を書いていたしそれは素晴らしいものだったのである
だから狂気でもそれが狂気なのかともなる

引きこもりを考えると社会不適応者である、そういう人は大人しい人である、今回の川崎登戸殺人のようにな人は少ないのである
おそらく優しい気質の人、暴力的な人はまれである、むしろ暴力的とかになる人は反社会的なもの暴力団とかに入るとなる、そういう人は実は侍になったとかある 
それを言っている人がyoutubeにいた、引きこもりとは市役所でそういうイメージを作ったのだとそれも何かそう思えるのはあまりにも今回の殺人犯は引きこもりの人のイメージと違いすぎるのだ、どちらかいうとひ弱な人が優しい人が引きこもりになっているからだあれほどの暴力性がある、度胸があると感心するのもわかる、変な感心の仕方だけどそれほどに反社会的になりうるのか?
そして実際はカリタス学園には両親の代わりだった兄弟姉妹の二人が入っていたのである
とするとカリタス学園の特定の者を恨みから狙ったという推理もわかる、つまり無差別殺人ではなかったとなる
ではそれほどその一人の小学生を狙ったのかとなるとわからない、不可解だとなる
つまり引きこもりとは必ずも結びつかない、明確に生い立ちとかで恨みがある犯行である引きこもりの人でそうした明確な恨みをもっていないからである
だからこれは特殊であり引きこもり全般にはあてはまらない、私が問題にしているのは引きこもり全般の問題である

そもそも反社会性とは何なのか?宗教とかは極めて反社会的なものである
第一家庭を結婚を否定していること自体反社会的なのである
社会そのものを否定して始まっているのである
そういうものが簡単に受け入れられるだろうか?
受け入れられないから寺とか修道院に隔離して修行したりそこを居場所として世間の価値観とは違うものを追求したのである

不思議なのは禅宗である、禅宗だと悟りのためとか座禅を組んでしゃべらない、沈黙の修行をする、でもそういうことは社会生活したら世間ではできない
なぜなら世間では絶えず社交生活でもしゃべることを会社生活でも営業でもしゃべることを要求される、そして話術で巧みに相手をだまして物を売ったり銀行でも証券会社でもいたるところで口たくみに売りつける、それは詐欺とにているのである
投資信託でも他でもそういうことが多いのである
つまり社会生活するにはそうして嘘をつかねば生活できないとまでなっているのだ
マスコミとかでもそうである、そこでも実際はフィクニュースだとか嘘が横行している
その影響が大きすぎるからその人たちはむしろアナウンサーでもかえって口をつつしまねばならないのである
でも現実はその逆なのである、しゃべるのがうまい人でないと勤まらないのである

引きこもりの人は会社でもブラック会社となるとそこで働きたくないというのは当然なのである、それはわがままもあるがそういうことがある
社会とは働くとか会社でもどこでもそこは利益優先であり利益のためには金のために偽るということは当たり前なのである、それがそもそも社会である
そういう世間から出家するということで引きこもる場を作ったのが寺であり修道院だったともなる
そこでは妻帯はしなかったし禅僧のように無駄口をたたかないとか偽りを言わないとか
身・口・意を修めることをしたのである
社会で禅僧のようにしていたら奇異に見られる、ところが禅寺でそうしていたらあの人は修行しているとかなり喜捨もされていたのである
それを考えると奇妙なのである

だから引きこもりの人は本当は寺とか修道院に入った方がいいともなる
そこで社会に世間とかかわる必要がないからである、ということはそういう引きこもり傾向の人がそういう場に入っていたのかともなる
ブラック会社で働くのが嫌だとかなればそういう場所に行けばいいとなる
侍でも人殺しをするのが嫌だとなればそういう場所に行けばいいとなるからだ
ただ現代ではそういう場所が用意されていないからかもしれないともなる
第一寺は江戸時代には役所と同じであり修行の場ではなくなっていたからである
ただ今の引きこもりはそういう場には厳しいから耐えられないともなる

なぜ引きこもりが批判されるのか?それが社会に役立たないとされているからである
でも寺とか修道院で修行している人はそう見られていないのである
むしろ尊敬されて喜捨までされているのである
この相違は何なのか?これも不思議なのである
ただ一日ゲームをやっているとか何か昔の寺とか修道院で修行している人とは違うから批判されているとなる
自分自身は何かそうして引きこもり精神修養していたとなる
そして詩とか学問とか芸術を追求していたとなる
だから引きこもりがすべて悪いものとして働くことはないのである

それで団塊の世代がみんな猛烈な企業戦士となり全部会社員となったことが疑問だった
何か大学になるとすべてが自由になる、あまりの高校との相違に驚くのである
そこから自分は働くとういことができなくなったということもある
それで良く大学を文系を出た人たちがあんなのに会社にすべてを全精力をささげる人となったのが不思議だとなる
貧乏の時代だったから仕方がない面があるにしてもその中で1000人くらいは会社人間からはずれたものになっても良かったのである
不思議なのは貧乏な時代にあれだけの僧がいたのかということである
一遍の念仏宗の信者が松島で二千人いてそこを浄土して死んだとか言われる
どこでも僧がやたらと多かったのはなぜなのか?その人たちは生産に従事していないのである、貧乏な時代だったらそういう人をそんなに養えないと思うからである
今なら養える、もう働かない人が老人をふくめて三分の一とかになっているからだ
そういうことで引きこもりが100万いるということにもなる
別に食べることができるからそうなっているのである

こういうように歴史をふりかえれば引きこもりは有用なものとなりうる、それは世間的な意味ではない価値観からではない、それと対立する価値観から有用なのである
社会や世間にいる限り偽り言う口になる、そこで意が必ず汚れるのである
身・口・意を修めるには社会から引きこもるほかないのである
だからそういう場を作りそういう人の価値を認めることだとなる
それが昔は貧乏な時の方ができていたというのが不思議なのである
ただ正直現実はそうはならない、それを証明しているのが天才的アウトサイダーだったのである、遂には狂気にいたっているのが多いからである
そういう天才的人間は社会でも自然でも統合することに腐心したのである
それができないから統合失調症になったのである

つまり現代文明は統合できない世界だからそれを統合しようとしてできないから統合失調症になったのである
むしろ遅れた国ではヨ−ロッパでもブタペストか東欧だとなっていないとういことでわかる、一時的になっても回復していたのである
それは江戸時代でもそうした精神障害者は社会の中に受け入れられていたのである
現代ではそうした社会に適応できないのもにレッテルを張り病気にして隔離するのであるその現代文明で正常と見られる人も実は異常だったのである
異常な社会から文明から異常なものが生まれる、カルト教団などもそうである
ナチスもそうである、それが生まれたのは文明という異常なものから生まれたのであり現代文明だからこそ生まれたものなのである
正常に文明生活している人にはどれだけ異常な人たちがいるか、性格が歪んで異常人格化している人がいるか?そういう人は治療すべきなのだが放置されている
そういう人たちこそ隔離すべきだともなるができないから遂にはカルト教団のように手がつけられないものとなりナチスのようになり社会が席巻されて最悪のもの地獄と化すのである

おそらく現代では引きこもりを受け入れる受け皿がない、寺とか修道院がない、そういう所はまた昔の修行の場でもなくなっている、そこも社会的組織の一部と化している
そこで引きこもりが行く場所がないから家に引きこもるとなったのかもしれない
自分自身はそうだった、ただ自分自身は特殊な家庭環境で恵まれたから60まで引きこもりだったのである、家の人に責められることが全くなかったからである
そしてかえって殿様のように自分に何でもしてくれたのである
そこに小人閑居して不善を成すともなったのである
今になったら誰も何もしてくれない、金をくれあとはなにもしないとなっているだけである
誰も思ってくれる人もいない、それもカルマだったとなる

修行としての人生

この世は快楽の場ではない
修行の場と心得よ
口さがなき人
汝を鞭打つ者
汝を虐げる者
汝を蔑む者
冷酷な仕打ち
汝はひたすら耐えよ
この世は修行の場なり
汝の精神を鍛える場なり
鉄の意志もて耐えよ
それぞれに生い立ち環境が違う
不遇な人よ、恨むとて解決せず
この世の理不尽、意にそわぬこと
常にこの世にはある
ただこの世は修行の場なり
内なる力を充実させよ!
深く大地に木の如く根を張れ
内なる力によって横暴に打ち勝つべし

引きこもりの性格としてはビジネス社会であれ現代に会わない人でありどちらかというと内向的な人が多いだろう
現代では外向的なものの価値が評価されて内向的なものの価値が評価されない時代でもある
宗教とは内向的なものであり芸術もそういうものがある
でも内向的なものはビジネス社会では嫌われということもある
ただ正直すべてなんでも外向的なものがいいとはならないしそれで分けることもできない今の社会は内向的なものの価値を認めないということがある
だから不思議なのはなぜ禅寺で座禅をして沈黙の修行をしているのか?
それは内面を充実させるためなのである、でも今のビジネス社会なら無駄だ、何の価値があるのだとなってしまうのである

何かこれだけ引きこもりが生まれた背景はいろいろあっても内向的な人の求める価値が認められない、そういうことが背景にある
いづれにしろ外向的であれ内向的であれいかなる社会であれこの世は修行の場なのである仕事でも修行でありお勤めである、でももし勤めだとしたら何かモラルに反するものがあれば勤められないともなる
それで本当に今の社会に文明に適応することが人間の道なのか?
そうでないとしたら別な場所で修行する場を提供すべきだとなるのである
そういう場がないから家庭に引きこもるとなってしまう
何か変な理屈だとされるかもしれないがやはり人間は歴史的にまた相対的に見ると見えるものがある、今からふりかえるとなぜあんなに貧乏な時代に生産にたずさわらない僧が多かったとういことが謎になる、今のように仕事しない人が三分の一膨大にいる時代ならわかる、かえってそうでない時代が僧が多かったから謎だとなるのである

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