2019年06月09日

以前として解き明かされない津波の謎 (柏崎と日下石により話を聞くー死体処理した人がショックで津波の後に死んだという)


以前として解き明かされない津波の謎

(柏崎と日下石により話を聞くー死体処理した人がショックで津波の後に死んだという)

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地の内古墳

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日下石まで海になった





●小城の小高城では領地支配に心もとなく、義胤はより堅固な場所に本拠を移そうとする まず、小高城の東、太平洋に面した独立丘に目をつけ、慶長元年(1596)村上城を 築くが、火災で資材を焼失し、不吉として移転を断念。

●築城年代は定かではないが永禄6年(1563年)頃に佐藤伊勢好信によって築かれたと云わ れる。佐藤氏は源義経の家臣佐藤忠信・継信兄弟の後裔を称し、好信ははじめ岩城氏の 家臣であったが、後に相馬顕胤・盛胤に仕えて軍奉行を務めた。天文11年(1542年)伊達 輝宗との合戦の功により磯部・日下石など宇多郡の内六ヶ村を領しはじめ磯部館(佐藤 伊勢館)に居を構えた。しかし、海水による浸食が激しく鬼越館を築いて居を移したと いう。

●相馬市黒木の諏訪神社の社頭の松は「桃井の松」と呼ばれる。諏訪神社は、もと宇多郡 尾浜村(相馬市の松川浦北部)にあり、天文七年(1538)に西方の黒木に遷座になった といひ、当時の歌が伝はる。桃井とは神官の名前らしい。(諏訪神社由緒)

 1611年12月2日(慶長16年10月28日)、慶長三陸津波

 なぜ慶長津波の前に館とか神社が移ったのか?
それも謎なのである、特に相馬市の諏訪神社が慶長津波の前に移転したのは謎である
なぜなら諏訪神社がそこまで舟が流れ着いたという伝説があるからだ
実際相当奥であるが小泉川をさかのぼって津波がおしよせてそうなったのかもしれない
仙台でも砂押川が小さいとみてもまず津浪は川から押し寄せるからである
それじ自分の住んでいる所が川の側なので川が大変なことになっているというとき見に行かなかったが真野川を津波がさかのぼりおしよせた恐怖である、川下では津波は土手を越えたからである
だから諏訪神社に残された伝説は全く作り話とも言えないのである

仙台の多賀城の末の松山の歌 

わが袖は名に立つ末の松山か空より波の越えぬ日はなし(後撰集、恋二、土佐)

契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波こさじとは(後拾遺集、恋四、清原元輔 百人一首)

これは貞観津波のことであり慶長津波ではない、貞観津波は多賀城に都の人が赴任してきたからいろいろ伝えられたのである   

でも不思議なのはなぜ慶長津波の前にこうして不吉だとか高潮だとかまた松川浦にあった諏訪神社も移転している
それはみな海側の神社なのである、村上城は1596年に不吉だとして移転している、これも慶長津波の10年前くらいなのである
ささに何らか津浪に関する謎が移転したことである

それから今回地の内という所の墓地でこの辺に住むばあちゃんと話しした
そこに五輪塔の立派な墓があった、その墓があまりに立派だったので話ししたらそれは嫁いだ人が故郷を出て成功して財を築き建てたという、もう一つも立派な墓である、それも兄弟だとか言っていた
何か事業に成功した人で先祖の地にあのような立派な墓を建てたとなる、他の墓は普通の墓だからである
それはまるで殿様のような大きな墓なのである

そのばあちゃんが言うにはここまでは津波は来なかった、でもぎりぎりだった、磯部から死体が流れてきてそれを積み重ねて処理したそのショックで津波の後すぐに死んだという、私もあの辺で死体が流れてきた聞いた
とにかく磯部の被害は大きかった、人家が多いから大きかった
死体でも相当に流れてきて処理していたのである、その時一番活躍したのは自衛隊だった、そして過労で自衛隊員が三人死んだのである

ただ地の内とかに古墳がありあれこんなところにあったのかと発見だった、相馬市にはあまり古墳がないからだ
そしてそこに古墳があるということはそこまでは津波は来ないのである
近くまで来ていても来なかった、でもなぜあんなところに古墳があるのか不思議だった
それから諏訪神社がありあそこにも津波は来ていない、でも磯部の近くの神社には津波が来ていた
神社だからだとすべて津波が来ないとういわけではなかったのである

いづれにしろ津波の謎は解けていない、今回でも柏崎から磯部を見たとき柏崎は高台だから被害がなかった
そしてあそこは畑しかない、そしてそこに住んでいた人が津波を来るのを見ていた
あそこなら見晴らしいいから見える、そして柏崎には田んぼがないのである
だからそもそもそこでどうして暮らしていたのか?田んぼになったところはもともとは湿地帯であり埋め立てて田にしたのである
ただ田にすることによって高台に住んでも米を食料として住むことができるようになった
それでもなんらかあれだけ海が近いのだから磯部の方でも魚をとりに行ったかもしれない
縄文時代に住んでいたかどうかわからないけど今田んぼになっている所は海だからなんらか漁をして魚をとって食料としていたことも考えられる

でも湿地帯の所に古墳があったということはそこに古墳時代に人が住んでいたのである
南相馬市の鹿島区の横手古墳でもそうである、海から遠いにしても海が見えるような地域でもあるからだ
ただあそこは海に結構近いのであく、津波が来た地点に近いのである
そして日下石という地名はニッケシであり二シのことである、説はあるにしてもそのニッケシがなぜ西になるのか?
それは海洋民は海から渡ってきて名付けたからだと推測した、なぜなら津波で海になったとき太陽がその海になった岸の方に沈んでゆくのを見たからである、これは海から見ない限り知り得ないことである、またありえないことなのだ

その裏付けとしてとにかくこの辺には綿津見神社が多いのである、山津見神社も対になってある、それは安曇族などが渡ってきたためだとなる、海洋民だと海からの視点になるからニッケシが西であり海から見たときその岸は西になるのである
そして実際にあの辺一帯が海になったときは驚いたのである、ニッケシだけはあの辺で変わった地名なのである
アイヌ語説もあるがやはり安曇族などが渡ってきてつけられた地名なのかともなる  

とにかく磯部の被害は大きすぎた

相馬市磯部地区では約2000人の住民のうち、251人が大津波の犠牲になった。市全体の死者・行方不明者458人の半数を超える。

村は全部壊滅して消滅した、250人の死体が流されたのである、それがちょうど今回ばあちゃんから聞いた墓地の地点辺りだった
相当数の死体が流れてそれを積み重ねて処理した、それでそのショックで津波の後に死んだという
それだけ磯部は悲惨だった、自衛隊は泥の中から死体を掘り出していたのである、その中には子供の死体もあったのである
そして自衛隊員も三人過労で死んだのである
津浪の記憶もだんだん忘れつつあるがまだまだ簡単には忘れられない記憶である、被害が大きすぎたからである
そして慶長津波のことが溺死者700人とか記録されていないのでその実態が解明されていないのである





posted by 老鶯 at 19:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係
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