2019年06月10日

相馬藩の慶長津波の証拠 (津波の前と後で石高が大きく変化したーその詳細の検討)


相馬藩の慶長津波の証拠

(津波の前と後で石高が大きく変化したーその詳細の検討)  

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  慶長奥州地震と相馬中村藩の復興( 岡田清一)
(グーグルで検索)

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慶長16年 1611年(11月13日)慶長三陸津波 相馬藩700人溺死、伊達藩5000人死亡とも
慶長 1611 12月 中村城に移転
慶長18年 財政困窮 給人、寺社方、職人にいたるまで役金を義務

慶長19年 大阪陣に参加 


中村城普請、江戸屋敷の普請の費用、参勤交代による費用などがあり在郷給人にその他寺社方、職人などに至るまで百石につき山両一分の割りで慶長18年から元和二年までの間、役金をおうせつけられた。
さらに財政が苦しく二分増しの三両三分とされた。
給人はこれまでも困窮していたためにその収入で上納もできかね、重代の大刀、刀、武具、家財まで売り払い下男下女まで売り払って役金を収めた。
これでは苦しいと役金の免除を申し出た。
でも殿は参勤交代の金も工面できないと許さなかった。
その後役金が免除されないなら知行地を返上したと再三訴えた。
このために他藩に行く者もあった。 

慶長津波の7年後に役金を課している、それは津波の被害が影響して財政的に苦しんだためか?その頃外部から他藩からの援助はないから相馬藩だけでまかなうことは苦しい
だから無理しても役金を課したとなる
戦国時代でありまず軍事費が優先されたのである、それは日本の戦争のときもそうだった戦争になればまず軍事費に予算がとられるからである 

相馬藩では700人溺死という記録しか津波ではない
その証拠となるものはない、でも岡田清氏が津浪の前後の石高を計算した
これは有力な証拠となる、目に見えて明らかなのである
津浪の前後で極端に石高が変化している
そしてその後に寛永16(1639)に津浪から28年後に倍増している
その変化を見ればやはり慶長津波がこの辺にありその時石高が極端に減少した
米がとれなくなったのである、それで財政が逼迫して津波の後なのに役金を課した
今ならそういう大きな災害の時は政府が援助するし外部の人が援助する
でも戦国時代であり援助はされない、だから苦しくても相馬藩内でなんとかしようとして役金を課したのである

これだけ苦しいのに役金を課せられたから過酷だった、それで相馬藩では伊達領に開拓のため移住した藩士がいた、それは伊達藩でも津波の被害があり人手を要したからである
そこにこういう相馬藩の事情があった、役金に税のとりたてに苦しんでいたためなことがわかる、郷士などは給人などは下級武士であり税のとりたてに耐えられなくなり伊達藩に移住したのである

でもなぜその後20年後には石高が倍増した、それはなぜなのか?

ここも謎なのだが当時は農業しか仕事がない、農業で食べていくほかない時代である
そういう時代が長かった、だから戦後の引揚者でも荒地を開墾して農業をはじめたのである、津波の被害があっても開拓して田を広げていった
そして1688年(元禄)に津波から77年後になると開拓は進んで日本が繁栄した次代なる、元禄文化が華咲いた時代であり、その時芭蕉が生まれたのである
それは江戸だけではない、地方でも開拓が進んで豊かになったのである

それで日下石の新田には元禄の碑があった、新田だから新しく開拓された場所だった
そこまでも津波が来ていたのである、だから慶長津波でも被害があった地域かもしれないが開拓されて元禄になると津波の被害からは完全に立ち直り石高倍増したのである

ただ石高の変化の図をみてもそれぞれに差がある
なぜ宇多郷(相馬市)では10分の一以上も石高が減ったのか?
つまり相馬市地域は一番被害が大きかったとなる
今回の津波でも被害が一番大きかったのは相馬市である、だからこれも共通しているのか?
なぜか北郷(鹿島)は被害が少ないしその後に石高が倍増している
まずその時八沢浦は開拓されていない、入江であり港があった、だから港という地域には人は住んでいない、明治以降開拓されて住んだ人が多いからである
また右田地域はおそらく津波の後に開拓された地域である
だからそこの被害も少ない、海老とか烏アは被害があっても田んぼはないから石高に影響しなかったのか?
何か慶長津波の被害が北郷は少ないのである

中ノ郷(原町)の被害も大きかった、これはなぜなのか?
今回も萱浜などが大きな被害になった、でもその頃萱浜は田んぼになっていたのか?
萱浜は越中などの移民が入ってきて開拓された土地でもあるからだ、ただ北泉辺りが被害があったのか?金沢地域でもここも開拓された地域である
相馬市(宇多郷)地域が被害が大きいことがわかるが中ノ郷(原町)が被害が多いことが良くわからない、そして小高郷も被害が大きかった 

小高の特徴は寛永になっても石高が減っている

これは何なのか?なんの理由なのか?
津浪の被害で石高が減ってその後になぜ回復しなかったのか?
小高は鎌倉時代以降港の機能があり蔵院とかまであった
船運が盛んにあった地域である、それでそこに多数の船があった、それでおんふねと相馬藩政期に多数記されているのである
その船も全部津波で流されたのかもしれない、なぜなら小高の海の方の駅前まで津波が来ていたからである、津浪で港の機能は失われたとなる
そしてなぜ小高だけが寛永時代になっても石高が増えないのである
他では増えているのに増えない、減っているのだ
これも理由がわからないが港の機能を失ったことと関係しているのかもしれない
海側に開拓できない事情があったのかもしれない、浜通りでは海側を開拓して田んぼを広げてきたからである、それができなければ石高は増えないからである
事実に大正時代にも井田川は開拓されていたからである
ともかく小高は石高が寛永時代にも回復しなかったのである

まず津波の後に中村に城を移転するにしても費用がかかる
大阪陣に参陣とかもつづきとても津波の被害に金を回すことなどできない
それより役金をう課してもう給人でも耐えられなくなっていたのである

重代の大刀、刀、武具、家財まで売り払い下男下女まで売り払って役金を収めた。

ここまでなっているということはどれだけ窮迫していたか察せられる
とにかく慶長津波で何があったかその時代を再現してみないとわからない
そして何かそうした歴史でも必ずカルマがある
カルマとは繰り返すことなのである、また一旦カルマが生じるとそれが消えることはないのである、天安門事件でも一旦そうしたカルマが生じると消えることはない
そこで無惨に死んだ人たちの怨念を消すことができないのである
だからまたそのことで政権が危うくなる、呪われるのである
歴史的カルマもある、それが津波だったのである
そこで省みられることもなく死んだ犠牲になった人たちは語られず忘れられていたけどまた津波が来てこうしてその時あったことを死んだ人たちをのことをふりかえることになったのである  
     

 
ビスカイノの報告

ビスカイノのことです。相馬藩に到着した翌日にラシャや衣類を貢ぎ物として相馬利胤に面会しました。この目的は相馬藩と友好関係を築いて海難事故の時に支援を要請し、キリスト教への改宗も考えていたようです。
彼は、其城内に於て快く司令官を迎へ、城は破損し、再築中なるを以て城内に迎へさ゛るを謝し、同市も海水の漲溢に依り、海岸の村落に及ほ゛したる被害の影響を受けたりと言ひ、其通行の際竝にイスハ゜ニヤの船又は国民同所に来る時は、全領内に於て喜んて゛十分なる給与をなすへ゛しと述へ゛たり。而して翌月曜日我等か゛行きて海岸及ひ゛余り用をなささ゛る二つの入江を測量する為め、同市に滞在せし時に其約を果したり。
相馬利胤はヴィスカイノを歓迎し、城が破損して再建中のため城外で面会したことを謝ったと記されています。この城とは同年に小高城から本拠を移転したばかりの相馬中村城と思われます。面会した場所は「城塞の入り口」(a la puerta de su fortaleza)と記されており、大手門周辺であったのではないと思われます。         

相馬市宇多郷地域は確かに津波が来ていた、これも証拠である、だから慶長津波がないとはありえないとなる
ただそれが伝えられない、民間でも伝えられないことの謎である
それは記録するものがその時戦国時代であり津波の被害を重視していなかったからだともなる
そして庶民は文字を書けるものがなくできなかった、伝説が残ったにしてもそれも忘れられた
ただ伝説といっても鹿島の八沢浦にだけ残っているのである
相馬市の諏訪神社の船が流れ着いたというのはいつのことがはっきりしていない、松川浦から1500年以降移転したとなるとやはり慶長津波のものかとはなる、ただそれも証拠とはなりにくいのである

posted by 天華 at 15:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波水害関係
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