2019年07月03日

夏の日(田舎の魅力は小径にある(詩)


夏の日(田舎の魅力は小径にある(詩)

komichifff1.jpg


michishirubeeee1111.jpg

tachiaoiiii4444.jpg
クリック拡大



伸びて咲く遠くの山や立葵

我が家の庭に四十雀飛び入りてめずらしきかな心はずみぬ

故郷の小径に真昼の日のさして行く人なしも蝶のとまれる

夏日さし道しるべあり道の辻日立木まで三里半かな

歩くなれ道は遠しも昔なり道標ここに夏の日さしぬ 

ふるさとの小径を行けばひそけくも菖蒲の咲きて一日暮れにき

トオスミの息をひそめて羽の透き草むら深く眠りけるかな   

 

故郷の小径

ふるさとの小径を今日も一人も通らなかった
夏の真昼の日がさして斑の蝶が一羽とまっていた
その小径をぬけて田んぼが広がり
蛙が盛んに鳴きひびいた
道の辻に大正時代の道標があった
村と村は昔は遠かった
今は車で遠くへ遠くへと向かう
心も遠くへと常に向かっている
ふるさとの小径は今日も一人も通らなかった
夏の真昼に影なして小鳥が歌っていた
ひそやかに菖蒲が数本咲いていた
田舎の真昼は静まり返っている
ああ 騒ぎなき日のもどりぬ
草むらに気づかれずにトオスミがとまっている
ふるさとの小径は今日も一人も通らなかった
紫の文目がひっそりと咲いている
ここに車の音はひびかない
昔から人のみが通う道
小鳥が森にのどかに歌っている
乱されるものがなくその美声のひびく
里の家の土蔵は古り
夏の柳はしだれる
今日水無河原の水は流れて
竹に風はそよぎゆれて日は暮れぬ


田舎の魅力というときいろいろあるが小径が意外と魅力がある
いつも通る小径がそうである、あそこは隠されていて一日人が通らない、クルマも通らない
その道は自分一人が通っている道にもなる
そういう道が田舎にある、でもわからないのである
原町とか相馬市になるとそういう道はわからなくなる
そういう道はまずクルマを使っていたらわからない

でも昔は人が通った道であり村と村をつないだ道である
そもそも昔は歩くほかないから歩いた道だからである
だから道標があったが日立木に三里半とか書いてある
いろいろな方向が書いてある、やはり距離としての目安が必要だったのかとなる
今は距離など関係ない、車で一飛びとなるからである
こういう小径とかを行くのはマウテンバイクがいい、舗装されていないからである
今度の電動のマウテンバイクは自分にあった自転車だった
ロードは高いのを買ったけど全く使いなくて損した
ロードは若い人向きである、また老人でも乗っているが若い時から乗っていて慣れているからできる
普通はロードは老人に向いていない

とにかくあそこの小径は自然がある、今日はトンボが盛んにむれとんでいた
なぜあそこにそんなにトンボが群れてとんでいたのか?
荒地化したところでそうなったのか?でもその辺は田んぼは回復している
ほんの一部が荒地になっているだけである

なしょうぶ(花菖蒲) 

葉が菖蒲に似ていて花を咲かせるから。

あやめ(菖蒲) 

剣状の細い葉が縦に並んでいる様子が文目(あやめ)模様。花基部の網目模様からの説もあり。

かきつばた(杜若) 

かきつばたの色(青紫)を染み出させ布などに書き付けた、つまり衣の染料に使われたことから「書付花」と呼ばれていたのがなまったもの。

菖蒲は花が大きい葉も大きい、菖蒲(あやめ)花も小さく文目ともあてる、乾燥地に咲く、今日私が見たのは文目である
野生のものだからである、でもあそこの池は枯れたのか?ちいさい溜池だった
すぐ近くに大きな溜池があるからあそはなになのか?

あそこには小さな丘があり眺めがいい場がある、樅の木が立っている、でもそこに上る道は草に埋もれていた
だからあそこの道は誰も通らないのである
そういう道を通り静かな田舎で過ごす、そういうことは震災前からつづいていた
でも介護とか自分の病気とか津波とか原発事故でこの辺は騒々しくなったのである
それで前のような静かな日がもどってきたのかとなり安らいだのである





この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/186226959
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック