2019年07月12日

遊ぶとは神聖なことであり神の意にかなうこと? (利害得失から離れた世界が聖なるもの)


遊ぶとは神聖なことであり神の意にかなうこと?

(利害得失から離れた世界が聖なるもの)

チンパンジーは干ブドウがほしくて勉強しているのではないことを示している。干ブドウにつられて勉強しているのならば、やさしい問題が続いて出される場合が一番いいわけでキーボードを押しては干ブドウをどんどん手に入れることができるはずである。やはり、問題を解く楽しさが、チンパンジーを勉強に向かわせているということなのだ。』
 【河合雅雄著「子どもと自然」岩波新書より】


類人猿は描くことで「作品をつくる」という結果を求めているのではなく、「絵を描く過程」がおもしろく、遊びの延長で描いているのだと齋藤先生は言う。これは、お絵かき帳などに自由に線や点を描く人間の幼い子どもと同じだ。


何かチンパージ―に学習させるのにバナナとかを与えたらかえって学習しなくなった
チンパージ―学習するのはまたゲームをするのはそれ自体が面白いからである
ところがバナナとか与えるとバナナを得るためとなりそこに気をとられて学習もゲームでも遊びもやる気がなくなったという


人間の学習でも動機づけが大事になる、動物でも遊びがありそれは餌をえるためではないただ純粋に遊ぶことが楽しいとか興味があるからだ
じゃれるのでもそうである、でも動物に曲芸とかしこむ、サーカス団とかでそうする
それは強制されてしているのではない、人間は金のために猿を使う、猿にとっては苦痛なのである
遊びそのものもを楽しみ追求するのが動物でもそうであり人間もそうである

人間の特質としてこの遊びが大きな要素にある、ところが子供の頃から純粋に遊ぶということがなく学習がおしつけられるのである
それは大人の功利的なものがあり押し付けられる
大人が親がいい学校に入りいい会社に入りとか自分の子供を自慢したいとか大人の功利的都合で子供を操作するのである
それは動物に芸を覚えさせて見世物とするのとにているのである

「遊ぶ」という語は、「古事記」に天若日子の葬儀の時
「日八日夜八日をもちて遊びき」とあるように
死者の魂を呼びもどすための歌舞をすることである
( 谷川健一)

あそぶとあそばされるとかは死者と関係していた、人が死ぬと遊ぶ存在になる
あそぶとはこの世から遊離して神ともなる
遊離の遊もそういうことになる
遊ぶとはこの世の利害にとらわれない自由な存在になる
死者はこの世の利害とかしがらみとか様々なものから解き放たれて自由になる
あそばされる存在になる、それが遊ぶの意味だった
神はこの世の利害得失から遊離した純粋に遊ばされる存在なのである

この世は常に人間の利害得失のなかにありそこで悩み苦しむ、その利害得失から解き放されることがないのである、それで遊ぶとういことはそういう利害得失から解き放たれることである、死者はこの世の利害得失とは関係なくなる、あそばされる存在になる
だから死者と遊ぶということは死者とこの世の利害得失かは離れてともに遊ぶことだとなる
ただ遊部が葬送を司る集団だというのもわかりにくい、なぜなら遊ぶというとき陽気なものに感じるからである、葬送となると陰気なものになるから矛盾している
言葉は長い間に意外なものに変化していることを示している

ただ遊ぶというときそこは利害得失がない純粋な遊びの空間となるとき聖なるものとなる人間は宗教的に考察してもエデンの園ではただ遊んでいたのである
そこは聖なる空間であり利害得失がない、純粋に遊ぶ空間なのである
子供が利害得失を考慮しないで遊ぶように純粋に遊ぶ場でありその時そこは聖なる場所になる
この世は遊星だというときもそうである、遊ぶ星なのだが異常な勤労の星になっている
それを神は良しとしない、勤労は常に歴史的に奨励された、それはやはり勤労がなければ生きていけないので強いられていたからである、だからすべて勤労がいいとはならない、別に原始人でも祭りがあれほど多いということでもかえって遊ぶ時間が多かったのである、だから必ずしも働くことを人間は好んでいるとはならない
資本主義は時は金なりというときそうした働くことが神に奉仕することだということでそうなった
でも逆に遊ぶということが神聖なことだったというもある
この勤労が宗教までになったのは西洋的価値観なのである、キリスト教を西洋的な価値観で変えたということもある

野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。

しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。


働きもしない、紡ぎもしないとある、キリストが働くことを奨励することを言ってはいない、むしろ否定しているのである
人が働くことは呪われたことでもあった、人間は労働を罰として与えられたとしているからだ
そうししたら労働がない世界がパラダイスだとなる、あったとしてもそれが遊びとなればパラダイスなのである
でも人間社会にパラダイスには永遠にこない、何か矛盾してきて地獄化してゆくのである

この世はあまりにも利害得失で汚されたのである、インタ−ネットでも前は無料の遊ぶ空間的なものがあったが今は世間と同じである
アフィリエトで宣伝でいくらもうけたとか一億円のブロガーがいるとかyoutubeがいるとか話題になり、利益を追求する場になった
その時インタ−ネットでは何ら世間と変わりない場所になったのである
何か芸術でも学問でも遊ぶということがありそれが利害が関係してくるとそこなわれるのである
遊ぶことと金銭は離れるべきだけど密接に結び付く、すると金をもうけることが第一になり本来の遊びはなくなるのである

それでチンパージ―でも学習でも遊びとして夢中になっていたのがバナナをもらうとその方に気をとられて学習でも遊びとして興味をもっていたが興味を失ったとなる
現代社会はその矛盾が大きくなった、あらゆる場所に利害得失が入ってきている
だからベーシックインカムとかはそうして利害得失の入りこめないものとして純粋に遊びを追及するものとして機能するとすればそれは理想となる
結局自分自身の人生は旅に費やしたというとき一生が遊びだったのである
それが無駄がとなればそうでもない、むしろ高度成長時代に企業戦士と働き詰めの人たちが神から祝福されない人たちだったともなる

老人になって趣味もないとか遊べない人間になっていることでもわかる
老人が用がないというとき遊べないからそうなる
とにかく人間は利害得失の世界から離れられない、金から離れられない、金でしか人間と関係できない、遊ぶことができない存在になった
そもそも資本主義に遊ぶとかのは入りこむ余地はない
それで資本主義自体がもう投資先もなくなり行き詰まっているのである
何か最近おかしいのはベーシックインカムとかAIで人間は仕事がなくなるとかいいみんなアーティストになるとかいうのも不思議である
蟻よりキリギリスになれと奨励しているのである

働きづけの人間が評価されないというのも不思議である
働くということは至上命令でありそれからはずれた人は罪人にもなる
あいつは働いていないとか無職だとなると犯罪人と同じにみられるのである
私は20代をのぞいて働いていない、私の人生は遊びだったとなる
でもそれが無益な人生だったのか?
一方で働き詰めで会社人間として働いた人は今でも社畜だとか言っている
不本意に奴隷にされているということなのである
これからの社会が利害得失から離れた社会になるとは悪いことではない
資本主義がゆきづまったのも悪いことではない、新しい価値観が生まれることは悪いことではない、社会はそれで進歩しているともなる
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