野馬追いの旗立つ(軍配の旗の由来)
真ん中に軍配の旗印
金沢村に軍配の旗印は旗帳にのっていなかった
でも下高平とか鹿島区の大内村とか右田村にはあった
金沢村は江戸時代に開拓された場所である、それほど広い土地でもなかった
だから旗帳には二つくらいしかのっていない
軍配の旗印はのっていないのである
原町区金沢村に立った旗印
この旗印は深野村長野村とかにある
雲晴れて旗立つ家や夏の山
山百合に鬼百合も咲き野馬追いの明後日かな期待高まる
野馬追いは野馬追に出る家に旗が立つときから始まる、金沢で二軒に旗が立っていた
一軒には三種類の旗が立っていたのはなぜか?
何かここに集結したためか?
ただ旗帳の金沢村には 記されていない、下高平村とかの旗にでている
そこから移動したのでその旗になったのか?。
なんらか家でも移動していることがあるからだ
深野から大原の方へ回ったら一軒だけ旗が立っていた、これは大原村の旗としてある
とにかく野馬追いというとき多くても500騎出るとしても実際は範囲が広いのである
浪江までありそこでの所帯数は何万とかなる、そしたら500所帯は少ないから野馬追いの出る家は特定できない、わからないとなる
鹿島区だと56軒出るのを知っているがそれでも少ないからわからない
鹿島区の特徴は南北朝の争いの時代に霊山から落ち延びた子孫がいる
その家の旗は天皇の菊印なのである、只野姓はその中心にある
その人は街内に住んでいる同級生だった
他に街内に住んでいて菊印の旗がたつ、それは天皇の紋である
只野姓の人の旗印は杉である、只野姓は本当に鹿島区に30人以上とかいるから多いのである、ここの由来はわかっている、その他はまずどこの家に旗が立つか場所がわからない
野馬追いは旗祭りだというとき旗印の意味がわかるといいのだがわからない
そもそもなぜあんなに旗印の数が多いのかとなる、それも不明なのである
軍配(ぐんばい)とは、かつて武将が戦の指揮に用いたうちわ形の道具。現在では相撲の行司が力士の立合いや勝負の判定を指示するのに用いる道具として知られている。
軍配団扇(ぐんばいうちわ)の略であり、本来「軍配」とは、所謂「軍配術」「軍配兵法」とも呼ばれる、戦に際して方角・日時を見極め、天文を読んで軍陣を適切に配置する法のことである。「軍敗」とも表記される。軍配術を行う者を軍配者という。
団扇紋は、武蔵七党の一つで、その中心勢力であった児玉党の家紋として知られているそして、家紋のなかでももっとも古い紋の一つともされている。
児玉氏は藤原姓有道氏流で、『源平盛衰記』にも「児玉の党、団扇の印をかかげて」とみえるなど、平安末期には児玉党が旗印として用いていたことが知られる。とはいえ、当時は団扇そのものを印として用いていたようで、それが、やがて家紋として図案化されたものと思われる。
これは深野とか長野村にあるし大内村とか右田村にもある、その系統が伝播したことがわかる
平安時代からあるのだから旗印は古い由来がある、それは武蔵とかに伝播されて相馬氏の侍の旗印となったのである、このように旗印の由来は古いのでありその起源は関西の方であり奈良とか京都の方だともなる、只野氏の杉紋は三輪山の杉に由来していて万葉集にその歌が残っている
あと三日で28日で野馬追いになるが今日は晴れてきたから晴れるようだ
野馬追いはやはり梅雨明けにはじまり本格的な夏に入ることを告げる祭りなのである
東北では一番先に夏の祭りとしてはじまる
ちょうど藪甘草が咲き今日は山百合が咲き鬼百合も咲き始めた
野馬追いがはじまるとき咲きはじめるのである
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