野馬追いの見所(野馬追いは歴史の忠実な再現)
野馬追いは他の祭りとは違っている感じがする、それは歴史の忠実な再現だということである、それで宇多郷(相馬市)と北郷(鹿島区)が合流する、それが儀式となっているのはそういう歴史があるからである
その忠実な再現を見たいと来ていた人は相当に歴史そのものに興味がある人だとなる
祭にはもともと古い謂れがあれその再現だからそういうことはあった
だから祭りとして残っていてもそれが何を意味しているのかもわからないのがある
書類とか言い伝いでわからなくなっても祭りとして残されているのがあるからだ
歴史という時、北郷というときこれは相馬氏がまず小高に入り小高に城を築いたからその小高から見て北になるから北郷になった
だから合併して南相馬市になったとき今度は相馬市に城ができてそこが江戸時代中心になったからその南ということで南相馬市になった
つまり城があるところが中心として意識して方角地名がある
それは歴史的継続だとなる、方角地名は必ず中心があって東西南北が決められるからである
野馬追いの見所はそうした歴史の忠実な再現なのである
なぜどこの家から野馬追いが出るのか、野馬追いに出る家に旗が立つというときそこに注目したのはその旗立つ家は野馬追いに出る家であり古い家だからである
侍の家だったのであり郷士の家だったからその土地で古い家として認識できるからである歴史を知ろうとしたときそこでリアルに感じるからである
でも地元でもどこの家から野馬追いに出るのかわかりにくい、結局十軒くらいしか自分自身はわかっていない、人口が相馬藩内で10万ちかくあってその中で野馬追いに出るのは500騎としても少ないからわからないのである
野馬追いが歴史の忠実な再現だとして野馬追いがあれだけの旗印がある、それは何なのだろうとなる、でもその旗印の由来を知ることができない、その由来は平安時代とかからも始まっているからわからない、由来をたどれば関西の方にまでたずねることになるからだなぜなら関西から関東地方に平家とか源氏でも移住してきたからである
東北は関東の武士団が移住してきて作られた地域である
それは鎌倉時代でありその人たちが先祖になっている
相馬氏もそうである、相馬氏は騎馬軍団で強いからこの地の支配者になったし強大な伊達市と対抗できたとなる
だから野馬追いのもう一つの意義は馬を知ることである
ただこの馬のことがわからなくなっている、馬は今は競馬でしかわからないのだ
それで皐月賞をとった馬がいるとういことでわざわざ見に来た人がいたのである
その人は相当に馬に興味がある、しげしげと馬を見ていたからである
実際にこの辺ではそうした引退した競馬馬を使って野馬追いに出る
また野馬追いに出るために馬を飼っている人もいるからそうなると金がかかるのである
いづれにしろ馬というのが身近な存在ではなくなったとき馬のことがわからないのである実際馬を知るにはモンゴルのような所に行かないと馬の存在感はないだろう
何もない平原地帯でこそ馬が疾走すれば活きた馬を見れるからである
モンゴルの馬にのったときこれが小型なのである
足がつくくらいだった、こんな小型の馬で良くモンゴルが世界を制覇したと思った
ただ山岳地帯とか行くにはいいのだろう、万里の長城のあるところは山岳地帯だからである、結構険しい山岳地帯だすると小型の馬の方が上るにはいいとなるからだ
日本の馬は大型である、だから落馬で相当死んでいた、高いから落ちたら大けがするからだ、馬はとにかくなじみがなくなった、馬が活きる場所は競馬だけになったからである
ただこの辺では馬に親しむ場所として残されている
だから競馬と深く関係しているのである
馬が今現実に活きているのは競馬だからである、そこで馬体を見て馬の良しあしを判断したりしているから馬が活きている場所なのである
その他は馬とほとんど関係していないのである
ただなぜ地元でも野馬追いが盛り上がらないのか?、外から来た人も一回見れば終わりだとなっているのか?。
それはもともと歴史の忠実な再現であり変えられない、現代的に変えればいいじゃないかと言っても変えられないのである
自由に旗印を作って野馬追い行列に参加すればいいじゃないかと言ってもできないのである、野馬追い祭りに参加できるのは10万人いたとして500騎しか参加できない
相馬藩内では極わずかの人たちしか参加できないとなっている
だから何か地元でもただ見るだけであり毎年見ているとあきる
それで地元自体が盛り上がらないとなっている、他の人たちはただ見ているだけだからである、ただ野馬追いに出る人は侍になった気分になるから気分いいとなる
それで野馬追いに金がかかっても出たいなっている
だからこの辺は馬と関係あるのだから馬に親しむ地帯にするということはある
それでこれも問題だが小高とか浪江では田んぼが草ぼうぼうとなって放置されている
すると何に利用するのかとなると牧場にして馬を飼うのがいいかと想像したりする
これもまたありえないとなるがただ歴史的にはそういう場だったから想像する
何か馬を活かす方法があってもいいとなるからだ
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