真野川の河原で野馬追いの旗取り
(野馬追いに参加した数の出身地の分析と津波のこと)
クリック拡大
近くにも但野(ただの)氏がいた
とにかく鹿島区では只野、但野・・・が多いのである
真野川の河原での旗取り
御家は小高から移った人の旗印ーこれは新しく作ったのか?
あとは只野氏の杉の紋と天皇の菊の紋は由来がわかっている
今日は真野川の河原で旗取タをしていた、ここに集まるのは鹿島区(北郷)である
でも(御家)とある旗は小高の人なのである
原発事故があり避難して鹿島区に移ってきた、ただ旗帳には見かけない
すると新しく作った旗なのかとなる
江戸時代に入ると、特定の大名の家臣団あるいは大名を加えた藩全体を「家中」と呼ぶようになった。むしろ、江戸時代の儒学者が中国の封建制度に倣って用い、明治政府の成立後に公式の用語となった土地統治に由来する「藩」よりも、人的結合に由来する「家中」の方がより広く用いられていた。例えば、伊達家によって治められ仙台城を中心とした地域を統治していた藩や藩士のことは、「仙台藩」「仙台藩士」ではなく、主家の名により「伊達家御家中」という表現が用いられ、また国持大名であった伊達家は徳川将軍家から「松平姓」を与えられていたため、「松平陸奥守様御家中」とも称された。ここでいう「松平姓」も、幕藩体制を本来松平氏の惣領でもあった徳川将軍家を惣領とする擬制的な家組織とする観念から与えられたものである。
給人とは、藩主から知行・俸禄を支給された武士を指します。相馬中村藩の給人は2区分され、城下にあって直接藩の用を勤めている府下給人(御家中・麓給人)と、通常百姓をし、戦時に兵役にあたる在郷給人とがあります
藩というときこれは明治以降に用いられた、江戸時代までは御家中である
藩は地理的区分としての藩を意識するが御家中という時は人的結合を意味している
つまり家が発展して城となった、城は家なのである
相馬藩だと今の相馬市の中村村に城を作ったから中村御家中となっていた
だからおそらくこの(御家)は鹿島区に小高から移り住んで侍出の人が新しく作った旗だとなる、なぜなら旗帳に出ていないからである
由緒ある家なので御家という旗を鹿島区に移り住み作ったのかとなる
他は只野氏の杉紋とか前にも書いた、とにかくこの辺では只野の姓が多い
その由来は書いた、南北朝の争いの時霊山城が落城したとき落ち延びてきた末裔が只野の姓なのである
その元は郡山の近くにある多田野村だったのである
それから桑折氏とか菊池氏とかもそうである、その紋は天皇の菊の紋である
南北朝の争いの時二人の天皇をたてて争ったからである
だから鹿島区(北郷)の旗印でこのことはわかっている
そして山王神社とか日吉神社は南北朝の争いで落ち延びてきた侍が護持したものである
鹿島区の江垂(えたり)の小高い山に中館を構えて住んだ
玉野村で鹿島の真野と相馬市に方に行った人が分かれた
それで山上には山王神社があることでわかる
そして野馬追いに参加している地区ごとの人数をみるとわかることがある
なぜ北郷(鹿島区)と中郷(原町区)がほぼ同数なのだろうか?
それは北郷はもともと相馬氏が入って来る前に在地の勢力としてあった
相馬氏進出の径路で書いたように相馬氏はまず小高から入り城を築いた
その時は行ったのは八重米であり太田神社のある地区であり小高区に入った
原町の場合は海側に泉氏とか在地の勢力が存在しては入れなかった
牛越城の位置は海から遠いからである
そして深野(ふこうの)にも在地の勢力がいては入れなかった
なぜならそこに館とつく地名が二つもあるからだ
館とか盾とつく地名は中世の地名であり城の役割を果たしていた
それで鹿島区(北郷)でも相馬氏は小池から進出して中村(今の相馬市)に進出したのである
海側には入れなかったのである
そこでなぜ相馬藩で400年前の津波のことが400人溺死としか記されなかったのか
その原因がその時こうして相馬藩が進出するときであり支配下に入っていなかった
まず相馬氏が完全に支配できていなかったのである
その時中村に今の相馬市に城を築いたのである、そこは伊達氏の領域であり海側は在地の勢力圏内だったのである
それで津波のことは詳しく記されなかったのである
そして学者の研究で400年前の慶長三陸津波の前後で米のとれた石高が三分の一くらいに減っていたのである、それが大きな証拠となる
海側に在地の勢力があり海を通して交通もあった、でも津波でその海側の勢力がそがれて相馬氏の進出に有利に働いたのである、つまり津波は相馬氏の支配にとって都合いいものだったのである
他にも津波の影響でそうなった地域があった、戦国時代とかなる敵の不利になることがつけ入ることになっていた
その後善次病死して棺を出す。時に大原村の森の方より黒雲持ち上がり棺をつかんで
雲中に入る。宝蔵寺の僧これを聞き走り来りり七重の袈裟を雲中に投ず。
声ありて曰く、「おいか」と。
棺おく雲散じ空晴れてこれを葬るという。是の世に希有のことなり。
知らず「おいか」とは何の言なるか。
なぜここで大原なのか、海老村と大原は遠い、でも相馬氏が進出したのは八重米坂から太田神社から小高の方である
原町となると海側ではない、大原は相馬市が深野をさけて進出した
そこから小池を回って中村へ(相馬市)へ進出した、そして柚木が八沢浦と接して宇多郷になっている
その辺に津波の伝説が残っていることが不思議なのである
そしてなぜ海老の大工の善次が
その後善次病死して棺を出す。時に大原村の森の方より黒雲持ち上がり棺をつかんで雲中に入る
大原の方というとき相馬氏が進出した場所だった、何かその時中村に相馬氏が牛越城から移転して城を築くというとき天守を造るというとき大工の善次は相馬氏から要請された、そこで在地の勢力下にあった善次は拒否もできずに苦しんだ
その時津波の被害が海老にあったからだったのかともなる、その怪異は津波の被害を語っているかとも推察した
海老には寺の関係とかで二つの館があった、今でも屋形という地名は残っている、そこは海老ではないにしろ在地の勢力があった地区である
相馬氏より先に岩松氏が鎌倉からきて北郷とか相馬藩内を支配していたからである,相馬氏より岩松氏が先住者として支配していたからである、その岩松氏は鹿島区(北郷)を根拠地としていたから相馬氏と対立していたのである
ただ岩松氏は一家が四天王という家臣に子供まで惨殺されたのは有名である
だから野馬追いに出る人の数が原町と北郷で変わらないという時北郷が大きな力をもった地区だったとなる、小高の倍もあったからだ原町は広い範囲だから今から考えると雲雀が原があり何か力関係では侍の数でも同じだったとは思えないからだ
でも雲雀が原辺りに原町村とありそこから野馬追いに一騎しか出ていないのである、あの辺は広大な野馬追いのための牧であり野馬土手で囲まれていた、人家はほとんどなかった、この野馬追いに出る騎馬の数はそういうことを物語っていたのである
なぜかわからないけど相馬市の松川浦から諏訪神社が相馬市内に移動しているし磯部の豪族の佐藤氏も鬼越城に移動している
それは慶長津波の前のことである、これも謎なのである、そして相馬市の諏訪神社に津波で舟が流されてきたという伝説が残っていたのである、小泉川を津波がのぼってきたのか?ただボーリングの調査では相馬市の奥まで津波がおしよせた痕跡が砂が発見された
しかしそれは貞観津波のものだったというから津波の唯一の証拠はその前と後で三分の一も石高が激減したことである
それは海側が津波で被害が甚大だったことをの証拠なのである、海側もかなり開拓されて田んぼになっていた
それが根こそぎ今回の津波の被害で大打撃を受けた、ただ田んぼだけではない、それより海上交通がありそれで財を成したともされる
小高には蔵院とかありかなり大規模に海上交通で商業がありそれで財をなして力をもっていたからである
それが津波でそがれてしまったとも推察できる
海側は意外と昔は魚でもまた海上貿易があると栄える素地をもっている、その延長としてこの辺は原発がたち一時は栄えたとなるからだ、海側にはそういうものが作り安い、松川浦とかでも今はガスの輸入の基地となっていることでもわかる
これからの発電はガスだというとき新地はそれで仕事ができて発展が望まれるというのもそのためである
【野馬追い関係の最新記事】
- 相馬野馬追いは維持できるのか? (..
- 相馬藩内の姓 (日本人の姓は村の地名に..
- 相馬野馬追い (雲雀が原へ結集ー神..
- 二年ぶりの野馬追いを見るー北郷(鹿島区)..
- 雲雀が原で秋競馬 (今日は菊花賞で..
- 今年も野馬追話なし(北郷の旗ー只野氏の旗..
- 南朝を受け継いだ明治維新その古代からの歴..
- 野馬追のキーホルダー(復興再生繁栄のシン..
- 野馬追の野馬の起源 (「馬」が動..
- 小型のモンゴル馬の話 (鵯(ひよど..
- 野馬追い(雲雀か原へ―写真)
- 野馬追行列が鹿島区(北郷)を行く
- 野馬追いの見所(野馬追いは歴史の忠実な再..
- 野馬追いの旗立つ(軍配の旗の由来)
- 野馬追い迫る 〈通りに旗が立つ)
- 馬の俳句の紹介(野馬追いがあり馬と親しむ..
- 野馬追い近し(女性の騎手が馬に乗っている..
- 野馬追いの起源 (馬に乗る人侍であ..
- 野馬追いが残ったのはなぜなのか? ..
- 野馬追いに出て東京の大井競馬場で働いてい..