祭り(祀り)の起源は死者の供養であり怨霊供養
(神への畏れを無くした現代人の危険)
「まつり」や「まつる」という古語が先であり、その後、漢字の流入により「祭り」・「奉り」・「祀り」・「政り」・「纏り」などの文字が充てられた。現在は「祭りと祀り」が同義で「祀りと奉り」が同義ともいわれるが、漢字の由来とともに意味も分かれているので下記に記す。
「祀り」は、神・尊(みこと)に祈ること、またはその儀式を指すものである。これは祀りが、祈りに通じることから神職やそれに順ずる者(福男・福娘や弓矢の神事の矢取り)などが行う「祈祷」や「神との交信の結果としての占い」などであり、いわゆる「神社神道」の本質としての祀りでもある。この祀りは神楽(かぐら)などの巫女の舞や太神楽などの曲芸や獅子舞などであり、広く親しまれるものとして恵比寿講などがある。その起源は古神道などの日本の民間信仰にもあり、古くは神和ぎ(かんなぎ)といい「そこに宿る魂や命が、荒ぶる神にならぬよう」にと祈ることであり、それらが、道祖神や地蔵や祠や塚や供養塔としての建立や、手を合わせ日々の感謝を祈ることであり、また神社神道の神社にて祈願祈念することも同様である。
例えばこの図は1887年頃の大阪の市街地と周辺の村々です。 それぞれに神社や祭りがあります。 他の地域からはあまり祭りを見に来ませんが、 一生懸命祭りをやっています。
祭りとなるとそれは村ごとにあり多様だとなる
とにかく日本にはなぜこれほど祭りがあるのか?
それは共同体が無数に分かれてあった、村単位で生活していたからだとなる
その村村に祭りがあったとなる
祭るとは神を祀るからきている、日本ではその神とは何かとなると先祖になっているのが多い、また死者である、死者が神となってゆく
そのことは各自の家でも家族が死ぬと最初は悲しいと喪に服したとしてもそれが時間たつと家族であっても何か抽象的な存在になる、そしてカミとなり祭りとなる
だから死者を祀りそれが発展して祭りとなった
そのことを象徴しているのが死んだ人がもし怨霊とかなり祟るということを畏れた
「そこに宿る魂や命が、荒ぶる神にならぬよう」にと祈ることであり、
これは本当にそういうことがある、例えば戦死者がそうである、3百万にもの日本人が死んだというときそれをどうしたらいいのか?
それで靖国神社が靖(やす)かれとして慰霊して祀っているのである
だから祭りは基本的に死者を祀ることだとなる
また不遇に死んだ人もこの世に多いからそういう人が荒ぶる神にならないように祈るのである
実際に家族でもそういうことがある、ある人は私に最後に親戚の人が「ひどい娘だわ」と電話で言ってすぐに死んだのである
その家族のことは私の家ともうまくいかず私自身も何十年も関係していないから事情がわからなくなっていた
その事情を語ると長くなるからここでは省くにしろこの母親は実の母親ではなくても一番世話した女性だったことは確かなのである
その母親が病気になったときめんどうもみなかった、でも介護もなにもされなくて白血病ですぐに死んだのである
ただ最後に自分は関係ないと思ったが電話で「ひどい娘だわ」と言い残して死んだのである、それが自分の耳に残っているのだ
それがまたなぜなのかというと私の家の母親はその実家から出ているからだ
そしてその娘は私の母親のところに介護しているとききて
「おばあちゃんは金があるんだから金でめんどうみろ」と血相変えて去って行ったのである、そこまで言えるのか?
ただ5歳まで一緒にいた実の親がいて施設に入っている、認知症になっている
何の情もないのだが金があるから施設に入れているだけなのである
これもだから悲惨だなと思う、そういうことがあり私もその女性を呪うということまである、ただそうされてもしかたがないというか、そういう面があったからあまり恨まない
でもその女性を世話した母親はそうではない、だからこそ悔しいとなり「ひどい娘だわ」と言って死んだのである、本当に信じられないひどい娘だったのである
なぜか不思議なのはこの女性は三人の母親がいてみんな最後は不幸になっている
一番世話になった母親にはそういうことがないと思った、いろいろあってもそこまではありえないと思った、もう60近くになればそんなことありえていと思った
でもその女性はいろいろな事情とは別に異常人格者になっていたのである
何か奇怪な夫婦となっていたのである
なんらか家族でもいろいろありそこに暗い物語が隠されている
それで墓には「怨霊供養」という小さな碑が立っているのを見かけるのである
いづれにしろ祭りとはいろいろあっても基本的に死者を祀ることから来ている
死者を恐れたから祀りがあり祭りと発展した
死者の供養が怨霊を鎮める祭りだともなる、死者を恐れたために供養するためにそうなった
ただ祭りとなると世界中でもあるが特に日本では多い、それは日本では村ごとに祭りがあるからそうなる、それでフランスの人が日本の祭りを全国を旅して見て歩いていたのである、日本の文化の特徴として祭りがあることは確かである
日本ではそれだけ古いものが残されているのである
面白いのは高校野球も一種の祭りとなっているという、日本的な祭りであり儀式だというその見方もやはり野球が単なるスポーツではなく夏の一大祭りであり儀式だとするとき何か高校野球だけは他のスポーツと違っている
勝ち負けがあってもどれだけ誠心誠意戦ったかを評価する
そこで犠牲も要求される、危険なスライディングとか何かそれは犠牲的精神なのである
無駄でもする、特攻とにている、そして投手でも極限まで投げさせる
それで今度大船渡の佐々木投手は体を痛めるからやめさせたのである
それは一つの大きな決断だったとなる
ただ高校野球は儀式だとして祭りの要素があるものとして見ると納得がいく
甲子園はその聖なる場所なのである、そこには穢れがあってはならないのである
それで穢れが拒否される場所であり犠牲がある場だともなる
そうなると何か単なるスポーツで勝敗を決めるものとも違っているのである
ただ必ず世界中で祭りがある、犠牲というとき牛が関係して牛を殺して神に捧げたからである、家畜を羊もでも殺して捧げた、豚でも捧げた、そういうことは世界中である
神に犠牲をささげるのが祭りだったということがある
それは日本でもそういうことから始まっている、神は犠牲を要求してきた
それで聖書ではアブラハムのイサクが神に犠牲として捧げることを命じられたが羊が代わりに犠牲として捧げられたのである
他でも必ず神に犠牲として捧げられる儀式はどこでもあった
それでマヤ文明なのか、そこでもスポーツの競争が走る競争が行われていた
そこで一番早く走ったものは神に犠牲として捧げられた、そうなると普通は参加すらしたくないとなるが競って参加したという
そして競争に勝ちの望んで犠牲になった、それは名誉だったのである
だからその競争に勝つものは強健なものである者であり選ぶ基準だったのである
宗教とはそもそもこうした神に捧げる犠牲から始まっている
キリスト自体が神に捧げる犠牲だったのである、それで神を和らげるともなる、そうでないと神からの怒りがあり人の世に大きな災いが起きるとなるからだ
何か津波とか原発事故にはそうした神への畏れが科学技術が神のようになり喪失したためかもしれないとも考察した
そもそも海は誰の者なのか?、それは万物は神によって作られたものである。
故にすべては神のものである、漁業者のものでもなかったのである、だから漁業権を東電に売り渡すことなどできないものだった
なぜなら海は神のものであり山でもそうだがあくまでも神のものとしてあるべきものだったからである
とにかく津波とか原発事故には神の祟りがあったのかとまで思うのはあまりにも大きな災いだったからである
神のタブーを破った結果としてこれだけの災いが生まれたと思うからである
いづれにしろ野馬追いも祭りである、これは歴史の再現の祭りである、これもやはり死者をよみがえらせる行事としてある、歴史の再現である
そして怨霊を鎮めるものとしての祀り祭りがある、これも祭りの起源だったことは間違えない、祭りは祀りであり死者と深く関係しているのである
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