2019年07月29日

小型のモンゴル馬の話 (鵯(ひよどり)越えの馬はモンゴル馬だった)


小型のモンゴル馬の話

(鵯(ひよどり)越えの馬はモンゴル馬だった)

mogoluuma1.JPG

昼夜の寒暖の差も激しく、冬はマイナス50℃の世界です。そういう中で、生き残るには小さいサイズの方がいいというのが遊牧民の知恵です。ゴージャスな配合飼料なんてもちろんありませんから放置です。ちなみに、馬というのははサイズが一寸超える毎に飼料代が倍になるそうです。


モンゴルの馬は屈強で俊足だったが、体格は小型であった。モンゴルの戦士はその馬に両脚をさんで乗り、片側にぶら下り、馬の身体を盾にして、その腹の下から矢を射ることができた。モンゴル兵士は、昼夜も続けて馬を走らせた。彼らは鞍の上で眠り、馬の首を僅かに切って、そこから馬の血を吸って栄養を補給した

チンキケスは、ホラサーンとギリシャに向かった。そこでジュノサイドという言葉でしか表現できない残酷極まる所業を働いた。ニューシャープールを襲撃したモンゴル軍は犬や猫まで皆殺しにした。犠牲者は174万7000人に達したという。モンゴル軍は畑を燃やし作物を台無にし農民から暮らしの糧をすっかり奪った。臆面もなく、己の謀略行為をことさら喧宣した。

鵯越の馬は小型のモンゴル馬

 昭和28(1953)年、神奈川県鎌倉市の建設現場から、500体以上の人骨と100本以上の馬の骨が見つかった。これは、正慶2(1333)年に新田義貞が「鎌倉攻め」をした時の戦死者とみられるが、馬の体高を復元したところ、結果は平均130センチだったという。


天馬徠兮 從西極 (天馬来たりぬ 西極より)
經萬里兮 歸有徳 (万里を経て 有徳に帰せり)
承靈威兮 降外國 (霊威をうけて 外国をくだす)
渉流沙兮 四夷服 (流沙を渉りて 四夷は服しぬ)

前漢の武帝が、西域のかなたより良馬を得た喜びを歌った歌である。シルクロードは、一般に張騫の西域遠征を以って始まりとする
馬に乗りながらヒツジやヤギの群を管理する騎馬遊牧の習慣が草原地帯に広まったのは、紀元前1000年前後とされる。馬に乗って放牧を行う場合、徒歩による場合とは比較にならない規模の家畜を管理できるようになる

「河西水草美しく、放牧の基地となす。畜産滋息し、馬二百余万匹にいたる」
と記されている。

そして6世紀、この牧場の馬の数は10万頭にも及んだといわれている。
当時、軍馬は今でいうならば、戦車1台にも匹敵する位置にあり、
時の権力者は、漢の武帝以後も馬の繁殖だけでなく、馬種の改良にも力を入れたのである。
そして「胡種を雑ふれば馬益々壮んなり」(『新唐書』兵士)の伝統は、今でも続いている。

広大で勇壮 天馬を育てる山丹軍馬場 シルクロード2万キロひとり旅113

 
ここのプログは写真がきれいで推奨できる、それにしても10万頭には驚く

野馬追いは馬の祭りである、しかし馬のことがわからなくなった、競馬だけが馬を知る手がかりになる、でも馬が歴史に果たした役割は大きかった
それは第二次世界大戦までつづいていたのである、そこまで馬を利用していたからである仙台近くの岩切に戦場で死んだ馬を供養する碑があった、それは第二次世界大戦のものだったのである、日本兵が馬に乗り南京城に入場する写真があったりその時まだ馬は戦場で活躍していたのである

現代のサラブレッドは、源平合戦時代の日本には1頭もいなかった。サラブレッドが日本に初めて持ち込まれたのは江戸時代の後期で、当時の徳川幕府を支援していたフランスから献上されたといわれている。  

昭和28(1953)年、神奈川県鎌倉市の建設現場から、500体以上の人骨と100本以上の馬の骨が見つかった。これは、正慶2(1333)年に新田義貞が「鎌倉攻め」をした時の戦死者とみられるが、馬の体高を復元したところ、結果は平均130センチだったという。

源平合戦時代の武将が乗っていた馬は、ポニーのような小型馬であり、現代の私たちがイメージするサラブレッドとはかけ離れた姿だったのだ



これは意外である、その頃の馬はモンゴル馬の種類だったのである
そうでなければとても鵯声(ひよどり)で馬を担いで下ったとかありえないからである
小型の馬だと餌もサラブレットのような大型の馬より半分ですむというのも有利である
そして草は草原で遠征中に補給できる、草原の草を食べて馬が進撃できる
それも有利だったのである
とにかく馬があって広大なモンゴル帝国が生まれた、その馬は耐久性があり省エネの小型馬だったのである
険峻な山の中に万里の長城が延々とつづいている、そこにもモンゴルが馬で攻めてきた
すると大型の馬だと上りにくいから小型のモンゴル馬が適していたともなる
何かすべて大型のものが強いとは限らない、小型でも有利に働くことがいろいろある

いづれにしろ馬が今も活きているのはモンゴルである、ただ中国に内モンゴルがあり中国もモンゴルのつづきであり遊牧民の文化が入ってきている
例えば相馬氏の紋所が北斗七星というときこれは星が方向の目印になるから遊牧民から生まれた信仰でもある、それが韓半島を通じて日本にもたらされて妙見信仰になった

とにかく兵馬俑をみればわかる、その騎馬軍団圧倒させられる、その騎馬軍団を擁して
始皇帝が中国を統一したのである
鎌倉も平将門から馬を使うことで騎馬軍団が強く西の平家に勝ったのである
その末裔が相馬氏でありそれで野馬追いが残されていたとなる

野馬追いというとき馬の祭りでもある、だから競馬とかモンゴルとかに行くと馬がまだ活きているから実地に知ることができる
そして現実にそのモンゴルのゲルで一年暮らした人がいた
それは羊を飼うことを習うためにいたという、それでそこに一年間いた人が冬になると一回りやせたという、それだけ冬は厳しい場所なのである
その人が大学で農学部でそういうことを習っていた、それで今度は北海道で羊を飼い観光客を呼び寄せる、それはテレビで写されていたので驚いた

そんな人がいたということも驚きだが日本人は今はどこにでもいる
テレビでモンゴルの遊牧民と結婚してゲルで生活している女性もいたからである
インドのバラナシでもインド人と結婚した女性がいたことにも驚いた
そういんうテレビ番組かあったがどこかに今や日本人が実際に外国で暮らしている
でもその生活は相当に厳しいのである、だからそんな厳しい場所に良く嫁いだとなる
とても軟弱ではそんなところで暮らせないからである

モンゴルへ行き遊牧民の暮らしを体験できるツアーがあったり今なら世界のどこでも行ける、私は車で内モンゴルに行ったがそこは相当に標高が高い、高い場所にあることが車で行ってわかった、でも飛行機とかで行くとその標高差がわからなくなる
つまり標高が高いということは寒い地帯だということである
だから冬は氷点下50度Cにもるとしたらもう耐えられないともなる
それでその体験をした若者は一回りやせたというのもわかる
その人は体力は相当ある人に見えた、そういう経験も凄いと思った
その話は帰りの船で聞いたのである

野馬追い祭りがあるとしてこの辺ではこうして馬に興味をもつ、馬の文化にも興味をもつ場所である、ただ馬というものはなかなか今ではわかりにくいのである
馬と直接触れる機会がないからである
競馬しか馬を見ないからである、そこでもっと馬に接するとなると乗馬とかなるがこれも金がかかるとか庶民的ではないのである
ただモンゴル馬だと一日で乗れる、落馬もしにくいのである、足がつくくらいに低いからである、サラブレットだと倍の高さになり落馬したら危険である
落馬して死んだとか記録されているがそれはいつのことだったのか?
江戸時代にもあるからその時はもうモンゴル馬ではなかったのかもしれない
この辺も今の馬を見ていると誤解しやすいのである

インタ−ネットではいろいろ馬のことが出ている、それで自分の体験をまじえて馬のことを書いてみたのである  



千里疾走する天馬   

全身に血潮みなぎり健やかなる時

草原の果てしなく悍馬は千里を疾走する

疲れを知らずどこまでもどこまでも疾走する

北斗七星、妙見菩薩や馬は天をも駆ける

神の巧みに天性の足と筋肉は疾走すべく作られる

草原は果てしなく悍馬は走りたらざれ

アレキサンダ−大王を乗せし名馬よ

そも世界制覇は成らず途上に果てぬ

鳥は休むときも飛んでいる

馬は休むときも走っている

魚は眠るときも泳いでいる

思いがけぬ遠くに駆け抜ける馬よ

草原ははてしなく広がり

その果て知らじも・・・・


アレキサンダーの乗った馬はモンゴル馬のような小型ではない、サラブレットだったのだろう、ヨ−ロッパの方の馬はまた違っている
唐の陵墓にペガサスの馬が飾られていたということはギリシャとも関係していたのである
ギリシャの海の神がポセイドンが馬になっているのも不思議である、遊牧民が海にでて航海の民になったという説もある  

pegasasu1.JPG


 参道には石像がずらりと並んでいます。
そのひとつ、ペルシャから伝わった
翼のある馬ペガサス




posted by 老鶯 at 19:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 野馬追い関係
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/186344380
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック