損して得取れ
(本当に得したことが得で損したことが損だったのか?)
一時的には「損」しても、その損が将来の「得」になるのであれば、当初の損を厭うな、
という意味だと解釈している。目先の損得だけを考えて行動しても、トータルで(長い目で)考えれば損になることがある、ということを示唆しているのだろう。商売でよく言われる言葉だ
人間はとにかく複雑なのである、商売となるとこれも通じることはむずかしい
そもそも自分に商売とかビジネスを語る資格などない、経験もないし、実際失敗もしているから語る資格がない、だいたい芸術とかなる浮世離れしているところがあり語る資格がないとなる
ただここ十年いろいろ経験してそれで語っているのである
まず諺はこれは本当に真理のように普遍的であり人間の経験から生み出された教訓である、では今でもなぜ通用するのか?
それは人間というものがいろいろ変わっても本質的に変わらないものだからである
人間はまず損しようとしない、損するのが嫌なのである、損する人とは付き合いたくないのである、でもなぜ損して得を取れとなっているのか?
そこに経験から生まれた深い意味がある
ある人は事業を始めたが技術系であり商売のことは知らない人だったと思う
その家自体の家風がまたその人を染めたのかもしれない
ともかく一円でも絶対に損しないようにと身構える家だったのである
そして事業をはじめてもまず他人のために一つの物を運ぶこともいとう
ただでは何もしたくない、箱一つさえもたない、一円すら損することはしない
そういう家だったのである、そういう所で事業を始めたらどうなるのか?
何か嫌になるだろう、誰も接したくないともなる
別に損しろというのではない、とにかく相手のためにするというとき一円でも損したくないという身構えているのである
そういうことで商売が成り立つだろうか?
誰も確かに損して商売はしないしできない、でも何か損することがどうしてもある
でもその損することがまた得することに通じることもある
だから一概に損することにこだわると何もできなくなる
その辺の兼ね合いがむずかしいにしろ一円も損はしないぞという構えになると付き合いたくないとなるだろう
ただこの世の中損得に一喜一憂しているのが現実である
それはわずかの金でもそうである、だから誰も損したくない得したいと毎日必死になっている、それから逃れられないことは確かである
でも人間の不可解は「損して得とれ」という諺に現れていたのだ
つまり何が損か得がその時々で計れないことがあるからだ
その時得だと思ったことが損になりその時損だと思ったことが得になったということを経験しているだろう
例えば地銀で苦しいから投資信託を売るのはわかる、それで一時的会社はもうけたとかなる、だから得したとなる
でも銀行は信用を失うとかある、ゆうちょでも保険でそういうことがあった
今までゆうちょとか銀行は信用されていた、それで投資信託をすすめられても銀行がすすめるのだから間違いないと思って大損したばあちゃんがいたのである
銀行とかゆうちょはまず地域で信用を築いてきたのである
でもそれが時代でもうからなくなり変わった時一時的には会社の利益になり得しても
その次から信用がなくなる、銀行とかゆうちょはそんなものだったのか?
もう信用できないな、金をあずけることはできないなとかなることが怖いのである
それで一時的に得してもあとあとは損したとなっていたとなる
ただ損する行為は誰もしたくないのである、自分自身がなぜ働かないのに金を出しているのか?それが嫌になっている、まるっきり損しかないと思うからである
第一商売するにしても損していたら続かない、赤字になり倒産してしまうだろう
だから商売は多少の損を覚悟して資金の余裕をもってするものかもしれない
最初からぎりぎりの資金でしていたら一円でも損しないと身構えるからである
そうなるとかえって客もつかないとかなるからだ
例えば仙台から来たユニットバスを百万で作った会社は優創建は得させた
何か会社自体が損しているのではないか?
第一ガス会社では二百万かかると言っていたし地元の人に頼めば三百万にもなったかもしれない、だから本当に安かったし悪いものでもなかった
だからここだけは得したとなる
あとはみんな損することだけだった、金をむしりとられた奪われたとしかない、現実に盗まれたりもしたからである
その人たちはただ損することより奪うということだったのである
金に苦しんでいるからそうなった、相手が苦しいからこの際脅迫しても奪ってやろうとしかなかったのである
損も得もない、相手から奪おうとするときそれはすでに犯罪者だったのである
実際に罰せられるべきだったのだかそうはなっていない
でもとにかく人間の不思議は不可解は一見確かに得したと思っている、でもあとになると損していたとなる、これは今でもそういうことがある
何が得で損かわからないのである、例えば大きく歴史でも日本の戦争は負けたが三百万人も死んで負けたから国にとっては大損だったのである
でもその後の復興をみればそれが得に変わっていたのである
高度成長ができたのは既得権者を戦争に負けて一掃できたからだという人もいるからだ
国自体でも損したと思うことが得に変わることがある
そして人生そのものもがまた何が損か得かわからないのである
人生をふりかえって誰でも何か得だったのか、損だったのか?
それがわかるだろうか?美人と結婚したから得だったかなっているのか?
金持ちと結婚して得だったのか?それも最後になって見ないとわからない
人生の損得も計れないのである、損だと思ったことが得になり得だと思ったことが損になる、そんなこといくらでもある
得したとやったと思ったことが後で大損だったとかなる
結局人間は小さな損得に一喜一憂しているはかない存在だったともなる
達観すれば所詮この世の損得はどうでもいいことだったともなったりするからである
要するに死んだら損も得もない、一巻の終わりだとなるからだ
いくら富を積んでも来世にはもってゆくことができないことでもわかる
この世で宝を積んでもその宝も腐るし天に持ってゆくこともできないとなっているのだ
要する人間はどんなに得しようとしても結果的に得にならない
損しして得をとれというとき損が得になることがあるから経験でそう言っているのである得ばかり追求しても得になると思ってもならない、かえって損することにもなる
一時相手をだまして得しても結果的には損していたとかなる
つまり長い目で損得をみればそうなる、ただ人間は日々目の前の損得に追われているのである、だから本当に大きな得とか損をわからないのである
人生を総決算すれば本当に何が得だったのか損だったのかわからないとなってしまうのである
あの時損したとことが実は大きな得だったとかなりあの時得したと思ったことが損だったとなることなどいくらでもあるからだ
結局この世の損得は計れないともなる、だから損して得をとれという逆説が成り立つのである、そういう逆説が人生に必ずある、もしかしたら非正規とかロスジェネは割を食った損な世代だったとか言っているのもわかるがまだわからない
最終的にどうなるのかわからない、個々人でもわからない、結局何が損なのか得なのかわからないからである
正直自分の家にきて苦しい時、得しようとした人は絶対に成功はしない、自分自身のカルマであったにしろ相手も成功はしない
銀行ももう地銀とあれば地域に尽くすものだったかこれももう終わりなのだろう
北銀で農業に投資しているとか何か地域に役立つをことをしないと終わりになる
ともかく本当に損して得とれというときそれができない人は成功はしないともなる
一円でも損しないぞとか商売していたら人と接していたらその時点で失敗している
そういう人は事業するべきではなかった、雇われていれば良かったともなる
結局第一損得勘定からはじめる、絶対に一円でも損しないとしてはじめる
それより事業を始める目的は何なのか?それが大事だともなる
ただ得したい金を得ることだということがすでに失敗しているのではないか?
ただ得したいとなれば相手から金でも財でも奪えばいいとしかなくなるからだ
そもそも相手のために何か物一つもつこともしたくない、そういう人が果たして事業などできるだろうか?
社長として偉く見せたいというだけで事業ができるだろうか?
事業のことがわからないにしてもそのこと自体がもう事業する資格がないとなる
最終的にはそういう会社は消えるのではないか?
一時的なものとして泡沫のように消える、ただ事業自体が20人一人とか成功していない6パーセントくらいしか成功していない、だから何か動機があり真面目にやる人でも失敗している、でも最初から絶対に一円でも損しないとか何も動機がない、偉く見せたいためとか、そして他者のために物一つ持ちたくないという人が成功するものだろうか?
その人が技術系でありその技術だけに集中してやれば問題は起きなかった
そこで利を追及していれば何も損しないし問題も起きない、でも事業となると違っていたのである、結局事業起こすこと自体むずかしいからそうなったのである
そういう人は事業を起こすべきではなかった、社会の迷惑になるだけだった
その後借金して周りに迷惑をかけている
人間は日々目先の損得勘定で生活している、でもそれはいいとして大きな事業となるとまた違っている、損得を勘定しないで始めることも必要になる?一円でも損しないということで始めることはできないだろう
長期的視野をもたないとやれないのではないか?そういうことを言っているのもわかるのである、でも現実問題として利益があがらなければつづかない、だからある程度資金的余裕がないと事業ができないともなる
そこで大企業は豊富な資金があるから資本があるから有利だとはなる
一時的に損してもまた資金と資本があるから立ち直れることがあるからだ
個人事業主とかなるとそれがないからである
いづれにしろ(優創建)は安い、で損している感じにもなる、仕事もいい、だから成功するかもしれない、ただそれにしても事業自体がむずかしいからわからないとなる
【経済社会労働問題の最新記事】
- 金融資本主義化グローバル経済の終わり ..
- 世界は、実体経済に寄生する巨大ファンドが..
- グローバル経済資本主義が破綻して終わる ..
- 需要がないのに宅地でも新築の家が作られる..
- イギリスがなお金融を支配している訳 ..
- 物と心が分離した経済 (でっかい磯..
- 銀行がすすめる投資信託や金融商品の危険 ..
- 日本の貧困化格差社会化の危険 (世..
- 銀行にまかせる投資は危険 (投資..
- グロ−バリゼーションと資本主義の縮小..
- 何のために働くのか-働く意味を求める時代..
- 価値とは何なのか (貨幣で計れない..
- 物々交換の時代へ (紙幣とかドルと..
- こんな額では生活できない」「包丁で刺して..
- 地震で家を直すのに苦労 (優秀な大..
- グロ−バル経済の崩壊 (信頼無き、..
- 「光熱費」に「奨学金」まで狙われる…ひっ..
- ボランティアの交通整理員 (警察か..
- 金を誰に渡すかが問題 (地域に金を..
- ルーブルで石油でもガスでも買いとプーチン..