芙蓉が似合う飯館村
(新涼に訪ねるー人が住まないと建物も自然も活かされない)
ここは栃窪でありこの石碑は明治時代が多い
ところが上の方に行くと金毘羅の碑が多く江戸時代の碑なのである
山津見神社
綿津見神社も飯館にあり対になってこの辺では本当に多い
文化という時代である、この石碑は倒れていた
大倉村の主要部分はダムに沈んだ
ダムになる前に行ったことがある、そこはまさに秘境だったのである
芙蓉がいたる所に咲いていたーここは新しくできたふれ愛館である
石がその土地に根付いて離れない
そんな感じの大きな石
蔵に映ゆ木槿や農家ここに古る
栃窪に古碑の並ぶや実りかな
草深くフジクロセンノウ咲きにけり飯館に我がたずねきたるも
大倉の墓地またたずね人気なき秋の蝉の声ひびき静まる
大倉に我は休みぬ秋の蝉ここに鳴きにつ誰か住みなむ
夏草にうもれし碑かな大黒天その碑倒るも直す人なし
ひぐらしの森の奥よりひびきけり大倉暮れて我が帰るかな
ゆったりと赤と白との芙蓉咲き客を迎えむ飯館村かな
この石の土地に根づきて離れざり虫の音聴きて夕暮るるかな
芙蓉が似合う飯館村
峠越えて新涼の山の村
悠長なる時の流れて
赤と白との芙蓉咲き
二つの花の愛のそそがる
至福なる日の我にあり
ここに心安らかに客を迎えむ
広々とした所に
一軒一軒森に包まれた家
その花の大らかにふくよかに
山間の空を仰ぎ咲く
ここを訪ねし者よ
疲れし者よ、癒されむ
去りてもそが心に深く
その花の写し残さむ
今日は涼しい感じだから飯館村まで行った、途中大倉により墓地とか古い碑を見た
江戸時代のものがあった、大倉は古い村なのである
葉山(羽山)祭りというのが残されていてそれは古いものなのである
この辺では葉山信仰が盛んなのである
ただ墓地にあったのは山津見神社である
これは栃窪村にもある、その本山が佐須にある山津見神社であり飯館村には綿津見神社もある、これは二つがセットになった神なのである
安曇族のもたらした神だとされている、とにくかこの神社は相馬地方に本当に多いのである、それはなぜなのかとなる
大倉村には人が住んでいる、少ないにしろ住んでいる、だから蝉の声を聴くときやはり人が住んいるのと住んでいないのでは大きな差がある
またそこに暮らしがあるとないのでも大きな差がある
人が住んでいれば蝉の声でも人をイメージする、秋の蝉の声がひびけばやはりその村自体が山村に住む人たちの秋を感じるのである
つまりそこに村があり人の暮らしがあるのとないのとはまるで違ったものに感じる
人が住んでいてければ原始的な森になる、そこから人をイメージできなくなる
そこに人が住んで暮らしがあれば季節の移り変わりがあり人のことを思うのである
飯館村にはなぜ秋の蝉が鳴くころ行っているのかとなるとやはり暑いと自転車では行きにくいからである、特に最近日ざしに弱くなり熱中症になったから怖くなる
今日は新涼であり気持ち良かった
だから楽に飯館村まで行けた
途中会ったのが新幹線で郡山まできて三春からこっちの方に自転車で来た東京の人だった新幹線は輪行できた、これはいい方法である、景色のいいところを回れるからである
そして二三日だとそれほど疲れないからである
東京から自転車できたら大変だからである
いい景色の所を回るには途中下車で輪行するのがいい
飯館村のキコリの宿は泊まれるようになった
ただ食事は出ないからそこは気をつけた方がいい、コンビニがあり弁当は買える
飯館村はいたる所に芙蓉が咲いていた、道の辻でもまでい館でもまた新しい交流館でも
芙蓉が咲いていた
飯館の花はひまわりの里としているが芙蓉の里である
ひまわりは他でもあり飯館村は芙蓉があっている
花というのもその土地にあったものがある
相馬市だと神社に古い藤の木があり藤の花である
鹿島だと草深く咲く月見草とかなり原町だとひまわりがにあっている
何かにあう花がある、飯館村は前から草深く森深く花が映える
フジクロセンノウというのも草深く咲いていた、これも飯館村にあっている
飯館村の不思議は花が他より純粋に美しく見えるのである
高山植物のようにも見えるのである
ただ正直そこが放射線物質のフレコンバッグが積まれていたり荒地になっているので荒涼とする、ただ花を植えたりはしている、でも荒れ果てたという感じになる
それは小高でもそうである、田んぼが草ぼうぼうになり荒地になっているのだ
それが嫌なのである、田んぼというのは自分も気づかなかったが田んぼが荒地になり草ぼうぼうになったとき蛙が消えてその鳴き声を聞こえなくなり鷺も消えたのである
だから田んぼというのは米を作るだけではない、生態系を維持するものとしてもあった
景観を維持するものとしてもあった、それに気づかなかった
その効用に気づかなかったのである、だから農業をただ食料をとれるだけのものとして見ることは間違っている、自然を生態系を維持するための機能があった
それは金にならないにしても自然と一体化してあった
蛙の鳴き声が聞こえず鷺でも見れないとしたら淋しいとなるからだ
景観(自然)と生業と暮らしが宝だった!
飯館村というときまさにこれがあったとき宝だった、それが全体として価値を作っていたのである
ただそこは貧乏にしても外から来た時でもなんともいえぬ味わいを出していたのである
そもそもそういう価値は全体が作り出すのでありそれが破壊されたとき失われたのである
それが原発事故の罪深さでありそれが飯館村に一番象徴的に現れたのである
多額の補償金をもらって外の便利な街に移り住んで良かったという人も現実にいる
外からただその暮らしの現実を見ないで理想化するのは問題だということもある
畑を趣味でしいてもそれがいかに苦しいものか理解している
畑仕事はブヨにくわれた、キジに野菜が食われた、ネズミに食われた、盗まれた、種が高い、肥料が高い・・・
様々な問題があり外から見ているだけなのとは現実は違っているからだ
ただ旅人のように訪れる時そうした苦労も人間の嫌な面も見ないですむからいいのである
それでツキデウスの人間の暮らしを神が隠したというとき自然の中に隠されるように人間の暮らしがあるときそこは桃源郷のようにいいものとなったのである、でもこの世に桃源郷などないのである、それはありえないから桃源郷なのである
までい館でアスパラガスと大きなトマトを買った
それは飯館村で作ったものである
そこでは放射線量を計っている人がいた
放射線量は量に作用される、多く食べれば体に蓄積される、少なければそうではない
それも確かである、相当の量を食べないと蓄積されないだろう
飯館村に住んでいた老人が山菜をキノコでも食べていた、その人は70以上とか80とかなっているから放射線は関係ないとして食べていたのである
その人は外から派遣された人ではなかった、飯館村の人だったのである
真野川の水質検査している人は中央から派遣されている人である
この前は農水省の人とあった、まだそういう人がこの辺には派遣されている
トラックが放射性物質を運んでいるのだろう
道路が狭いから危険なところがあった
までい館の前は住宅地化して家が建つ、その前の古い農家ではその土地を売って補償金でも多くもらったから新しい家になっていた
何か飯館村では補償金の額が大きかったから外に出る人も多く残る人と残らない人でもめたとかあった
現実に交流館とか他に学校でも建物は立派なのである
でもそこに住む人がいないことが致命的なのである
子供すら外から通っているのであり住んでいないからである
村長の孫とかでも通っているのである、それもは矛盾である
なぜなら村長自体が住まないのだからその他の人も住まないとなるからだ
帰ったのは二割弱というから少ない、そのことで人が住まない牛を飼うことなどの暮らしがないということで前に来たような感覚になれないのである
やはり人間は建物でもそこに人が住んでいないければ活きてこない
施設を立派にしても活かされないのである
それで立派な施設が南相馬市にあってもそこで働く介護士などいないから青森にこの辺では介護者が移されているのである
つまり立派な施設が建物がなくても人がいれば活きるということがある
人がまずいなければ建物でもなんでも活かされないのである
前に着たときも芙蓉が咲いているのが印象に残っていた
でも何か前の印象とは違うのである、それが残念なのである
ともかくようやく涼しくなり自転車で遠くに出かけられた、暑い時はぐったりと疲れて寝ることが多かった、秋になれば遠出ができる
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