神和(かんなぎ)神から荒ぶる神と化した海
(津波は神の祟りなのかー海への祭りが消失していた)
●古来の祭りの消失がまねいた災厄
その起源は古神道などの日本の民間信仰にもあり、古くは神和ぎ(かんなぎ)といい「そこに宿る魂や命が、荒ぶる神にならぬよう」にと祈ることであり
「政り」については、日本は古代からの信仰や社会である、いわゆる古神道おいて、祭祀を司る者(まつり)と政治を司る者(まつり)は、同じ意味であり
相馬市史がインタ−ネット上にあった、これは有益である
そこに相馬地方の漁業のことが出ている
人間と自然とのかかわりは祭りとしてあった
また祀りは死者と交わる祀りでもあった、その二つが混交してあった
そして祭りは政り事であり政治だった
天皇とは日本の祭を担う祭祀を司る祭司だったのである
今ではもそれは継続されている、これだけ自然災害が多いから自然を和らげる神和(かんなぎ)を祈らなければならない、また戦没者の霊でもなだめねばならない
だから政治とはこうした祭りと分離されたがそれでこの世の中がすべてうまくいったのかとならなかった
戦争の場合は祭政一致となり天皇が神となり御真影とかなり戦争に利用された
天皇はまた軍神として祭り上げられてきた歴史も日本だったのである
それで南北朝時代は天皇が二人になり国の隅々まで二分されて争うことになったのである
おそらくしかし日本の天皇はもともと自然と関係してまつりごとを行う司祭だったのである、それはこれだけの災害がある日本だから当然だとなる
日本には本当に防災省が必要なのである
例えばなぜ津波の災害がもたらされたのか?これほど恐ろしい災いがもたらされたのか?それを考える時科学的に津波が来るものでありそれは神の祟りとかではないとなる
でもその災害があまりにも大きくその被害もこれだけ大きいと何か理性的に見れなくなるあらゆることを科学的解き明かしそれで納得するのが現代である
科学万能主義に陥っているのが現代である、それに逆らうものは科学を否定するものは現代人ではないとなる
だから祭りは消失したのである、日本では祭の数が多い、それだけ日本は自然に対する対処の仕方が違っていた、自然に対する畏敬が強い国だったのである
ただ世界的にも祭りが多い、その祭りは犠牲という言葉が牛であり牛を殺す動物を殺して神に捧げることが祭りとなる、豚を殺したり羊を殺すことが祭りでありそれが宗教の起源になる
つまり外国の場合は人間の代わりに動物を殺して犠牲にして神の許しをこうていたのである
だからその動物を殺される血を流すことを見ているから悪いことをしたとき罪の意識が深くなるのである、俺のために代わりに動物が血を流して死んだとなるからそうなる
それが植物になると野菜とかなるとそうした強い罪の意識は感じないのである
なぜかそうしてカインは野菜をささげて呪われたのである、動物をささげたアベルは神に喜ばれたのである
外国では神という時、万物が神なのではなく一神教的な神である
それは人格を持っている神でもあるから人間に近いとなる
ただそういう相違があるにしろ神へに対する畏れをもっていたことは共通している
科学時代にならない前は異常なほどそうして自然を畏れた結果として祭りが多かったのである、それが科学時代になったときそうした自然は科学で解き明かせるものとして科学信仰にまでなった、そして祭りは消えたとなる
ところがこうした民俗学的なものは科学からみると一段劣ったものであり祭りは継承されたとしても昔のように真剣に祈ったりしない
漁場だって今は機械で探したり海からの航行の目印となった山でも今は機械で地図を見ているから頼りにしていない、機械万能となっているから祭りは現実には漁師であれみんな真剣に祈るということはないのである
●科学を万能として神とする危険
ただなぜ津波が起こり原発事故が起きたのか?
その原因を追及してきたがそれがすべて科学として解明できない
むしろ人間は自然と折り合うとき祭りが生じたがそれがなくなった
それが何か災いをもたたらしたのだともみるようになった
例えば動物でも殺して食べる時どうしても何か神に祈り食べることを許してくださいとかなる、心情的にそうしないと食べられない、その命はやはり神から与えらたものでありそれで許しをこうのである
今はそういうことはない、まるで物のように動物でも扱われなる、それが象徴されているのは鶏が工場で生産されるようになって鶏は卵を産む機械にされていることでもわかる
それで確かに玉子は安くなったのだがそこに経済合理性とかばかり追求していると何か神を冒涜しているということで人間に跳ね返ってくる怖さがある
つまり鶏でも動物でもそういうふうに扱うことは人間もそう扱われようになる
それがナチスとかの大量殺りくであり現代文明はなぜこれほど大量に人間が殺戮された時代なのか?
それは文明自体がもう人間は工場で大量生産する奴隷にロボットにされていると同じだったからだともなる
自然と文明とかかわるものはない、自然はただ材料であり森でもなんでもそこに祭りもなにもなく介入してゆく、それが機械が巨大化しているから容易に森も破壊されてゆく
そうしてグロ−バル経済になると世界の自然がブルドザーのように遠慮もなく容赦なく自然に入り込んで破壊するのである
もし森に神が住んでいるからとか畏れるとしたらそうはならない
まず文明は自然を畏れない、畏れるのは給料をもらえなくなることである
その給料を握っているのは多国籍大企業だとかなるのである
だからその命令の方が怖いのである
でももともと小規模で村単位とかで自然と関わっていたときは自然を畏れ敬っていた
それはどこでも同じだったのである
そもそもなぜ漁師が原発に東電に漁業権を売り渡したのか?
それは漁業では金にならないというのもわかる
跡継ぎいないとかもわかる、それは農業でも同じである
でもよくよく考えると海は漁師のものだ、漁業組合のものだというときだから東電に漁業権を売ってもいいとかならないだろう
経済的にはそれで事故前も多額の補償金をもらん原発御殿を建て事故後も継続的に補償されるから同じように立派な家を真っ先に建てた
これは何なのだろうと今になると思う
それは結局科学万能時代となり科学者が神のようになったからではないか?
科学者は神官であり原発は神なのである、だから海までその神殿なる原発に捧げて神官に従い漁業権を売り渡したのである
現代は漁師だけではない、科学万能社会であり科学者が神官であれ聖職者なのである
だから自然を畏れた祭りはただ形式的に継続されているだけでありそこに命は通っていないのである
原発事故は神を自然を畏れない祭りが消失したから起きた
そうも言えるのである、祭りは実利に合わないものだとなり軽んじられてきた
それをしていても豊漁とは関係ない、機械で漁場を探すことの方が重んじられてきたのである、そういう科学万能主義になったとき原発でも金になるからいいものだとなったのである、だが原発は科学は何か神への自然への畏れを欠くものを内在していたからこそ火を盗んだプロメテウスの神話が生まれたのである
結局エネルギーとは神から盗むものだったのである
火もそうだったし武田邦彦氏が言うように水力発電もそうだしソーラーパネルも風力発電も自然エネルギーだというけど違っていた
必ず神からエネルギーを盗んでいるから自然ではありえないのである
そこに必ず自然を破壊する作用がある、風力発電でも自然の風を奪うから辺りに何か自然の破壊がある、それは詳しく知りたければ調べられる
科学技術には必ず自然を破壊するものでありその業(カルマ)から逃れることができないそこで今回のような大災害の事故が起きたのである
●グロ−バル経済の危険、国々の風土や歴史文化を無視するから
その他グロ−バル経済が危険だとして警告されるのは一見いいように見える
でも人間の生業はもともと自然と深く結びついて行われてきた長い歴史がある
その国の自然と深く結びついて行われてきたのである
だから風土から離れて技術もありえないのである
中東の砂漠では風が吹いているから風車が発明されたとか日本だと山が多いからトンネル技術が発達したとかある
それで今回の原発事故でアメリカの指導のもとに原発を導入したことが致命傷になったのである
なぜなら日本には日本の風土がありそれで古来から成り立つものがあったからである
アメリカでは竜巻があるから電源を地下に置いた、それで日本がでもアメリカの指示なのか地下に置いて津波で使えなくなった
高台に原発を作る予定がそれをわざわざ削って低くして津波の被害にあった
アメリカでは竜巻を重視した
日本では地震と津波を重視して造るべきだった
つまり外国と風土も歴史も違うのだから同じにしてはならないのである
数学の公式のようには世界はならないのである
だから風土とか地理があって国々がありその国に適した国造りが望まれる
グロ−バル経済の問題はその国々の風土とか文化を無視するから問題なのである
民俗学だと例えばクジラをとる漁民が海岸にいる、でもクジラをとれたとき山の民にそのクジラをもって祭リをしてもらう、山の民はクジラを食べることができる
海岸に住む者と山に住む者がそこで和合する
それもまた祭りなのである、グロ−バル経済ではそういうことは無視される
経済の前にそういう祭りがあったのである、人と人を結びつけるものがクジラを通じてあった、それは今の経済原理とは違っている
まず風土があり人がありそれを結びつけるものとてしクジラがあった
そのクジラにしても海からとれるのだから漁師は海へ祈りクジラをとっていた
それでクジラが大型船でとられるようになったときそれも破壊された
それがグロ−バル化した大企業のやり方なのである
そうして海から今度はクジラがいなくなるということにまでなり保護しなければならないとかなったのである
グロ−バル経済も国々の風土や歴史や文化を破壊するから問題なのである
もちろん国々の貿易を全部否定はできない、双方利するものがある
でもその国々の自然とか風土とか文化を無視して経済合理性だけを追求するグロ−バル化は危険なのである
ただそこでもうかればいいとか金があればいいとかが危険になる
現実に漁業権を東電に売り渡した漁業組合のことをみてもわかる
つまり海でも森でも大地でも川でも多国籍大企業に売り渡されてしまうということであるアマゾンが火事になって危機になってるのもそうである
地球の自然が文明によって破壊されてゆくのは世界共通なのである
●アマゾン火災も人間の業から起きた、焼畑も農業も自然を破壊してきた
アマゾンでは、木材用に加えて、大豆畑や牛の放牧地を作るために、大量の木が伐採されている。手っ取り早く開拓するために、森を焼き払うことも少なくない。アマゾンの森林火災は、大半がこのように人間が火をつけ、その後制御不能に陥ったものなのだ。
アマゾン森林火災、原因は「過剰な伐採」と専門家
「ボルソナロは嫌いだけど、森林だけあってどうやって暮らせばいいんだ」と話す。ボルソナロと対立する左派政党を支持する彼女にとっても、経済活動を犠牲にして環境のために森林を守れという思想は受け入れられないものだ。
ボルソナロは「アマゾンには2000万人のブラジル人が住んでおり、彼らが発展できる機会を与えられなければならない」とも述べ、アマゾン開発を諦めたわけではないというメッセージを送った
アマゾン森林火災、くすぶる先進国への不信 現地ルポ
人間の業は自然を破壊しなければ生きていけないことである、エネルギーでも自然から神から奪わねば生きていけないことである
それが業(カルマ)でありそれで災いを逃れられないのである
つまりそれによってアマゾン火事でもわかるように焼畑自体が自然破壊だったのであり農業自体が自然破壊にもつながっていた
アマゾンという大森林が農地化されればそうなる
日本だって平地すら森がおおていたりしていたからである、そこが農地になったからである
そこで暮らす人にとっては世界でアマゾンを保護しろといっても通じないのである
人間が生きてゆく方が先決だ
こうなるから自然は破壊される、でもそのことが世界全体にもはねかえる、二酸化炭素が増えるとかあれだけ広大だから地球にも影響するのである、でも人間が増えてそこに住むとすればアマゾンでも破壊されるのである
そういうジレンマに陥っているのが人間である
人間は人間の業(カルマ)の故に滅びる、業とは職業の業でありあらゆる職業が業(カルマ)となっている
なぜあらゆる職業自体が業となりカルマとなって害を及ぼすのか?
それはまず金になることを優先される、そして金になればいいとしか今はない
何か自然と折り合う祈る祭りなど関係ないのである、それで漁師でも漁業権でも売り渡すし金にならないものは無駄だとなる
でもその無駄な無用なものに実は大きな効用がある、第一空気など最大に無駄なものであり金にならない
でもその無駄な空気が汚されたら原発事故のこの辺のように住めなくなるのである
ただ矛盾なのはアマゾンがあったとしてもその周辺で生活しようとするとなると森を切って畑地とか牧場にせざるをえないのである
そういう矛盾がありこの辺だって原発が金になるからいい、自然は金にならない、そのままにしていても金にならないとなる
そうして漁業権でも売り渡されるた、そして空気も水も土も森林も汚染されて住めなくなったのである
でも日本でももともとアマゾンのような森林におおわれていて縄文人が住んでいたのである
それが開墾されて田畑にして今日がある、だからアマゾンでもそうなることが悪いのかともなる
ただグロ−バル化したから先進国がそう言う、それならそこに住む2000万人の生活をなんとかしてくれともなるのである
結局森はエジプト時代でもレバノンにあったレバノン杉でもなくなるように消える運命にあるのかともなる
エジプトでも砂漠になっているけど森林があったからこそ神殿の柱はその木を象ったものだとなる
ドイツの森でもそうである、樅の木が黒い森が覆っていた、それでゴシックの大聖堂は森を模したものだとなる
自然破壊が人間の歴史でありそれによって文明化したのだからその業をやめることができないのが人間なのである
このことは武田邦彦氏も言っている、フランスの製薬会社が薬になるのが原始林にあるからそれをとるためにアマゾンを保存すべきであり環境保護団体も金のために動いている、つまり文明が発展してゆけば文明の恩恵を受けるためには人間は必然的に自然を破壊せざるをえないのである
それが人間の歴史だったのである、それでブラジルの大統領もヨ−ロッパ人がアメリカがアマゾンを保護しろというのは勝手だとなる現実にアメリカでも森林におおわれていて木材を売ることが最初の仕事だったということでもわかる
それが一面のトウモロコシ畑だとか旅行鳩が食料に大量に殺されて絶滅したとか自然を破壊してきたのである
そういうことをしてきて豊かになった人たちがブラジルにはするなということは勝手だとなる
結局どこでも自然は人間がいる限り破壊し続けられる、インドでもそうだし中国でもそうなった
人間がどんな生物よりも獰猛なのである、機械を使うからたちまち自然は今や破壊される
機械がない時代は破壊のスピードが遅かった、今はまたたくまに破壊される、ブルドーザーが森の精霊だろうがなんだろうが神々でも無視して破壊してゆくのである
だからそれだけの科学技術の力を持った人間が怖いのである
どこでも自然は森でも破壊されたがそのスピードは数百年とかかる、今ではもう10年くらいで森林はなくなる
北海道でも開墾するのに道具がないから容易ではなかった
100年でできることが1年ででできる
中国でも鉄道でも家畜のように人間が詰め込まれていたのがまたたくまに新幹線になった、そのスピードがグローバル経済では早いのである、千年かかることが10年とかに短縮されるのも怖い
アマゾンだってもう10年くらいで全部なくなることもありえるのである、放置していればそうなる
つまりそれが地球全体でどうなるるのか?地球の限界が急速にきて破綻状態になるということである
千年で消費するものを10年で消費したらそうなるのである
現代の問題は圧倒的な力をもった人間が自然に介入してくるからみるみるうちに自然は消失するのである
確かにヨ−ロッパでもアメリカでもどこでもそうして豊かな生活を築いてきたのだからそんなこと言えるのかとなる
それがわかるにしても現代文明の問題は余りにも科学技術の力が大きいから問題なのである
原発事故でも結果的に空気から土から水から森から汚染されて住めなくなったからである
そこまでの自然の破壊は科学技術文明がこれほど発達しなければ起きないのである
それでそれを容認するのは危険なことになってゆく、ブラジルの言い分があっても今度はブラジル全体に何か災いが及んでくるかもしれないのである、それはアマゾンがどういうものか本当に理解できないからである
自然というのは実際は人間にとってすべてわかったわけではない、未知の部分があるから思わぬ方向に展開することが怖いのである
科学技術は未来に何かわからないが大きな災厄をもたらす危険が原発のようにあるから怖いのである
これがただ一尾の魚を尊敬するかせぬかによってさういう恐ろしい結果を生じたざとつ伝えるのは考えて見れば不思議なことである。
漁業者が一尾の魚を尊敬するなど今は全くないだろう。一尾ばかりとったってなになるのだ。大量にとらなければ商売にならないとか常になっている。そして漁業では金にならない、だから跡継ぎもできない、これは農業でもそうである。一粒の米に感謝していた昔とは大違いである。
民間の津波の伝承の語るもの (津波はやはり天罰だったのか?)
この伝説はわかりにくいにしてもやはり一匹の魚を言うことを大事にするかしないか、そういうことがこの背景にあるのかもしれないもの言う魚ということは一匹の魚が津波を警告していたのである
今でも科学がこれだけ発達しても津浪を知らせることができない、とすると自然の中に前兆となるものがあるからそれを無視してはいけないとなる、一匹の魚を軽んじてはいけないともなる
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