綿津見神社が相馬地方に多い謎の解明(1)
(海洋民族のネットワークができていて海岸沿いを渡り移住した)
●ポリネシアの海洋民が安曇族のルーツか?
水辺の古代史(小野寺公)より引用
陸奥(むつ)は古代ポリネシア語で陸地、岬、端をさす
これはマオリ族の言葉ででも同様で終点を示すという
むっは東北訛りで奈良朝にひどい訛りが移っていたことになる
安田徳太郎は安曇(アヅミ)族についてサンタル族から航海術を学んでチベットやベンガル地方と交易したモン族がこれにあたると説いている
彼らの日本列島進出は紀元前二世紀頃という
二世紀の朝鮮の書に「韓海に魚多ければトル術なく倭人は網漁を良くすると聞き二千戸を招きこれをとらしむ」とある
綿津見族を始めとする南方族は瀬戸内海から難波に入り拠点を作り黒潮沿岸沿いの椀に定着して鹿島、香取、住吉、宗像、
墨江 安波大杉などの神々を祀ったと言われる
大田地名に見られる特徴として第一に渡来人が関係が深い
第二に国内の主要通路に位置する
第3に背景に鉱山をひかえているのが多い
記紀の伝承で三輪氏や加茂氏の始祖とされく大田根子は彼らを統括する立場にあったと言われる
古事記では鹿島神宮の祭神タケミカズチミコトの子が意富多多泥古(オオタタネコ)とされている、それは多(おう)氏の始祖である
徳川政次郎教授は安曇族と隼人族は同族で(安曇隼人族は中国中南部の民族で紀元前二世紀頃、いわゆるトカラ馬やトカラ豚を携え、黒潮にのって日本に来た
鵜飼いは中国中南部に上陸したのが隼人族であり北部に上陸したのが安曇族である
日本古代に朝廷に仕えた猪甘部は豚を飼っていた人民であり鵜養部は鵜飼いをして朝廷に仕えた
◎先祖たちが海のかなたからやってきたという神話伝承をもつ
◎流し鄙灯篭流しを思わせる〈船葬)の民族儀礼をもつ
◎韓国済州島経由で伝播したと思われる南方海人系の石像文化が見られる
飛鳥にある石像は南方系由来なのか、済州島にあるから経由してきたとなる
船葬というとき真野の古墳に石棺に船型のものがあったが船に乗って遠くに去る考えた古代の観念だろう
(本邦祠の研究ー岩崎敏夫)
新地村の大戸浜の安波の現在の祭神は綿津見の神である
安波というのも海洋民に由来したものであり綿津見と関係している、もともとは安曇族などと関係していてそれが祭りになった
太田というのはまぎらわしいが大きい田ではない、多(おう)氏のことでありそこから太田となった、だからそこはもともと相馬氏が入って来た時古い場所だったのである,多(おう)氏はいわき市に勢力をもった大豪族であった、それは天皇とも関係していたのである
●古事記の国産み神話は安曇族とか海洋民族に由来している
日本武尊は上総かみつふさより転じて、陸奥国みちのくにに入られた。そのとき、大きな鏡を船に掲げて、海路をとって葦浦(あしのうら)を廻り、玉浦を横切って蝦夷(えみし)の支配地に入られた。蝦夷の首領島津神(しまつかみ)国津神くにつかみたちが、竹水門(たけのみなと)に集まって防ごうとしていた。しかし、遥かに王船を見て、その威勢に恐れて、心中勝てそうにないと思って、すべての弓矢を捨てて、仰ぎ拝んで、「君のお顔を拝見すると、人よりすぐれておられます。きっと神でありましょう。お名前を承りたいのですが」と申し上げた。皇子はお答えになって、「われは現人神(あらひとがみ)(天皇)の皇子である」と言われた。蝦夷らはすっかり畏かしこまって、着物をつまみあげ、波をかきわけて、王船を助けて岸に着けた。そして、自ら両手を後に縛って降伏した。そこで、日本武尊は、その罪を許された。こうして、その首領を俘とりことして、手下にされた。蝦夷を平らげられ、日高見国(ひたかみのくに)から帰り、常陸ひたちを経て、甲斐国(かいのくに)に至り、酒折宮さかおりのみや(甲府市酒折)においでになった。
竹水門(たけみなと)とは原町なのかもしれない、そこに多珂神社がありタケはタカなのかもしれない、そしてこの伝承の背景となったのは安曇族とかの海洋民が大量に移住したことが下敷きになっいている
それも前二世紀とかなると古いのである、日本列島には最初縄文人が住んだとしてその後に様々な民族が海を渡ってきて住みついたのである
だから日本語のルーツはポリネシアとかにもあるし中国にもあるし韓国にもある
ただそれが解き明かすことができないのは様々な民族が混交してしまったからだと思う
するとどうしても複雑に民族の言葉がまじりあい一つのルーツでないからわからなくなったのである
陸奥(ムツ)という言葉がポリネシア語として奈良朝廷に伝わったというときもそうである、奈良朝廷ではそこを陸奥(ムツ)として地名として意識したのである
身体語が頭とか鼻とか手とか足とかがポリネシア語に由来するとしたらその後の社会を表す語は中国系統とか韓国系統とかになるのもわかる
村とかは韓国語系統だとするとき後から韓国系統が日本列島に入って来たとなるからだ
原ポリネシア語を基幹祖語とする縄文語の上に古代朝鮮語またはアルタイ語系統の言語がかぶさって成立したと思われる弥生語または古代日本語で育ち、古代朝鮮語はある程度理解し、中国語および漢字文化に精通はしていたが、原ポリネシア語はほとんど理解することができなかった世代でしょう。
ポリネシア語で解く日本語
何かポリネシア語説はアイヌ説より説得力がある感じにもなる、アイヌ語説は何かおしつけが多い、信用できないのである
アイヌ民族自体が謎でありそれほど古い民族でもない、新しい民族だとも見れるからである
それでそもそも日本では安曇族とか隼人族が九州に移住して魚をとっていた、その技術があった、それで韓国ではそれで魚がいるけどとれないとして招いたのである
そのことからもわかるように日本に渡ってきて漁労民となった安曇族とか隼人族がいて
その人たちが海洋民であり船を操作する技術をもっていたからそうなったとなる
韓国は遊牧民系統であり船を操作できなかったのである
日本とはそもそも漁労民族が住みつくのに適していたから海洋民族が渡って住みついたとなる
それで古事記の国造りの神話も極めて海洋民族の国造りになっている
イザナキ神とイザナミ神の男女二神に
「この漂っている国をつくり固めよ」と命じて、
天の沼矛(ぬほこ)を授けて、
国づくりをお任せになりました。
イザナキ神とイザナミ神は、
天の浮橋という空に浮かんだ橋に立って、
その沼矛を指し下ろしてかきまわしました。
潮をかき鳴らして、引き上げた時、
その矛からしたたり落ちた潮が
積もり重なって島になりました。
この島をオノゴロ島*1と言います。
初めに生んだのが淡路島、
次に生んだのが四国、
三番目に生んだのが隠岐。
そして九州、壱岐、対馬、佐渡と生み、
ついに本州を生みました。
この八つの島を大八島国といいます
こういう神話は海洋民族のポリネシアとかに由来することは確かである、島があるのは島を中継点として船で移住したということになるからだ
日本列島は今でもそうだが森が多い、そして海に囲まれているから湿地帯が多い、これが日本列島の風土の地理の特徴なのである
津浪で一時海が深く奥まで入り込んで湿地帯化した、それは釧路湿原と同じようになったのである
日本の海岸線は太古は釧路湿原のようになっていたのである
そして砂州が磯部の方にできていてそこに人が密集して住むようになったが津波で壊滅したのである
釧路湿原と同じく砂丘できたのが磯部だった
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