2019年10月02日

故郷の実りの秋


故郷の実りの秋 
                               

柿なりて代々の畑耕しぬ

秋の蝉朝に聞き入りいつもの道  

秋の蝉今日は聞こえぬ同じ場所

朝露の稲穂に光り野良仕事

夕日さしふるさとに老ゆ実りかな

橲原(じさばら)に山重なりて秋日没る

秋日さし橲原暮れぬ山の墓地


街道の松の変わらず道しるべ秋風吹きて坂越え来たりぬ

大海の波にゆれにつ鴎浮きまた飛びたたむ秋になりしも

丘の上に久しく立ちし樅の木の直しも実りに夕日さし暮る

ねんごろに故郷の女(ひと)と話しけり我が家ありて秋となりしも

礎(いしずえ)の祖(おや)あり成りぬふるさとの実りなるべし陽は山に没る


最近土手の道の同じ場所に座る、すると必ず蝉の声が聞こえた
しかし昨日も一昨日も聞こえなかった
つまり秋の蝉の声は聞こえなくなった、これは季節が変わったことである
蝉の声が聞こえないことで何か深い余韻がそこに残る
それはいつも同じ場所にいたからそうなった
ここ十年は介護して旅もしていないから同じ場所回っているからそうなった

ふるさとの実りはいい、この実りがないと秋という感覚がなくなる
橲原(じさばら)に行ったが実りが一区画くらいしかないのが淋しい
草ぼうぼうなのである、何か人間の営みは自然と融合しているとき一番美しいのである
だから形だけでも実りがあり畑でもしている人がいると自然も活きているのである
一区画しかなくては淋しい、山の墓地も何か秋の日がさしていい感じになる
そういう場所に眠りたいとなる

何かその場所場所には個性がありそこに暮らしがあるときいいのである
だから限界集落が消失するというとき淋しくはなる
ただ農業だけではもう暮らしていけない、第一どこでも農業だけで暮らしている人は本当に田舎でも少ない、勤めている人が多いからである
でもなにかしらそこに生業(なりわい)がないと自然も活きてこないのである 
橲原とかは奥座敷という感覚になる、場所としていいのである
山に囲まれた狭い地域だからそういう感覚になる

だから観光とかなるとその場所の特性を活かすことなのである
私は何か場所にこだわる、地形にこだわる
観光なら陸前浜街道とこうした山の地域を活かすことである
一日でも浜街道を車を通らないようにしたら昔が甦る、ただ日立木から相馬市の城跡までである、あそこは昔の街道が残っているからだ

実りという時、それは稲穂だけが実るのではない、それが心に反映される
だから田畑でもそれを食料とだけみるが文化的実りもある
実りは祖(おや)がいて実りがあるとなる

話するのは故郷の老いた女性である、その女性は話だけはうまい、でも腰がいたいとか何もできない、ただ話するだけである
でも年取ると実は話することが仕事にもなる、昔を語ることが仕事となる
昔話とかは老人が孫などに語り聞かせることからはじまったことでもわかる
何かを経験でも伝えるために話する、何か人と話する時、活きてくるものが自分自身思った
ちょっとでも相手と話すことでわかることがある、おそらく今の時代は語りの時代になっているのかもしれない
youtubeなども個々人の経験の語りなのである、それはマスコミとは違ったものである
語りとなると必ずしも大勢に語ることではない、知らせることでもない
対面的になるからだ、そこで多様性が生まれてくる、そういう時代の変化としてインタ−ネットとか生まれたとなる
インタ−ネットでも個々人の語りだからである

ねんごろとは

1 親密になること。

「おまへは貧乏神と―してござるかして」〈浮・禁短気・一〉

2 男女が情を通じること。

「此のお夏は手代と―して」〈浄・歌祭文〉

日本語も不思議である、ねんごろとはねむころから生まれた、寝るとなるから男女が情を交わすことである
日本語の語源を探ると何か日本の文化が見えてくる




わたしは待っている

I am waiting for you

わたしは待っている
あなたの帰るのを待っている
木の根のように
わたしはその土地に根付き
あなたを辛抱強く待っている
帰って来いよ
あなたのふるさとに
あなたを待つ人がいる
死者もあなたを待っている
ふるさとは荒れ果てていいの
あなたのふるさとはどこなの
わたしはふるさとに根付いて
一本の樹のように
あなたを待っている
帰ってこいよ
あなたはここに育った
あなたはここにはぐくまれた
愛する人がここにいた
深い愛がここにはあった
わたしはここに根付いている一本の樹
その根元に藪甘草が五六輪咲く
わたしはここに待っている
あなたが帰ってくる日を
辛抱強く待っている
わたしはここの土地を離れない
わたしはここでこの土地に朽ちてゆく
それでもわたしはあなたを待っている
辛抱強く待っている
わたしはここに生きてきた
ここを離れてわたしの生きる場はない
人はある場所に深く根付く
そこを終の住処と根付く
人も石や樹と同じだから
そこに人は安心立命する
あなたの思い出はここにあり
ここにまた生は受け継がれ
また新たに織りなされてゆく
わたしは待っているいつまでも・・・


これは前に書いた詩だけど読み返していい詩だった、これも忘れていたのである
何か自分の書いたものでも忘れていてもう一度読み返して感心しているのも不思議である
いいものは何度読んでもいいということがある
そういうものが古典として残る
時流的なものは一時的なものとして消える、それが百万人読んでも消える
なぜか芭蕉の俳句などはこれだけ時間がたったのに味わいをましている不思議である
そこに何か深い芸術性がありそれがかえってこれだけ時間を過ぎてもかえってそれが価値をましているのである


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