天皇即位の礼の俳句と短歌(天皇は日本の文化を受け継ぐ)
天皇の二重橋行く秋柳
秋粛と天皇行きぬ二重橋
令和の世我が年重ね秋柳
秋柳即位の礼の儀式かな
次の代即位の礼や金木犀
次の代即位の礼や秋の虹
松の間に豊の灯りや実りかな
初冠雪富士の嶺仰ぎ即位の礼
松の間に豊の灯りの節会かな大和心のここにはぐくむ
豊の秋天皇迎ふ外国の人そまねきて令和はじまる
皇極紀元年十一月の条に「天皇新嘗御(きこしめ)す」、応神記に「天皇豊明(とよあかり)聞し看しし日に」、大嘗祭祝詞に「皇御孫命の大嘗聞食(きこしめさ)む為故に」、続日本紀巻三十の称徳天皇の宣命に「今日は新嘗の猶良比(なほらひ)の豊の明(あかり)聞こしめす日に在り」など多くの用例があります
天皇の御所とかでもこうして古い謂れがあって名付けられていた
応神天皇というと
応神天皇元年1月1日 - 同41年2月15日
時代
古墳時代
摂政
神功皇后
神功皇后
先代
仲哀天皇
神功皇后(摂政であり、女帝説もある)
仲哀天皇
神功皇后(摂政であり、女帝説もある)
次代
仁徳天皇
仁徳天皇
『日本書紀』によれば母后摂政(神功皇后)が崩御した翌年に即位。即位2年3月、仲姫命を立后。子に大鷦鷯尊(仁徳天皇)らがいる。また皇后の姉の高城入姫命との間には大山守皇子らを得た。『日本書紀』によると即位3年10月に「蝦夷をもって厩坂道作らしむ」即位5年8月に「諸国に令して、海人及び山守を定む」、即位7年9月に「高麗人・百済人・任那人・新羅人、並(ならび)に来朝(まうけ)り。時に武内宿禰に命して、即位11年10月に「剣池・軽池(かるのいけ)・鹿垣池(ししかきのいけ)・厩坂池(うまやさかのいけ)を作る」とある。剣池は奈良県橿原市石川町の石川池という
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%9C%E7%A5%9E%E5%A4%A9%E7%9A%87
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%9C%E7%A5%9E%E5%A4%A9%E7%9A%87
ともかく応神天皇の代までさかのぼる歴史が豊の灯りでもある
皇室はこうして日本の歴史を保存してきたとも言える
何か応神天皇とか神郷皇后とか仁徳天皇になるとあの巨大な古墳がある
そういう時代にさかのぼる、皇室の意義がそうした歴史と文化の継続を保つことにあったそういう歴史を偲ぶことにある、ただそうした日本の歴史とか文化が継続しにくくなっている
例えば御所があるとして二重橋があるとしてそこは徳川幕府の江戸城があったところである、その城の後に天皇が住むようになった、もともと大きな堀があってそこを渡る橋が
明治以降二重橋となった
そしてテレビで即位の礼を見ていてそれが日本文化のきらびやかな絵巻物に見えたのである
おりしも雨がやんで秋の虹がかかったというのも吉兆だったし日本的だった
そして二重橋の前に柳があった、そこを天皇(すめらぎ)が通る
皇后様も通る、何か日本的な美がそこはかとなく醸し出された儀式だった
東京にはあまりにも煩雑になり高層ビルとかで情緒とか美が消失してしまった
だから行きたくないのである、ただ煉瓦の東京駅から皇居までは何か歴史を感じるのである、でも何か江戸時代が三百年あったとしてその歴史が偲べないのが残念なのである
なんといってもやはり天皇の歴史は京都とともにあったからである
何かやはり歴史というとき百年二百年でも短いとなるのだろうか?
まだあそこに皇居があり天皇が日本の国の象徴としてあることがなじまない
でも江戸城を復活しにくいのは天皇の皇居になってしまったからである
なぜ百万都市の江戸が偲べないのか?それは明治になったときあまりにも変わりすぎた結果である、大名屋敷でもなんでも江戸にあったものが破壊されたからである
それが残念だったのである、ただ江戸城跡の皇居にだけその跡が残ったのだか天皇の住まいとなったとき何かそぐわないとも感じるのである
天皇はもともと京都に住んでいた方がにあっている
なぜなら権力の象徴ではなく日本の文化を体現するものとしてありつづけたからである
だから言葉というのはその背景となるものが失う時活きてこない、皇居には具体的に日本の文化を受け継ぐものが残されていて豊の灯りという言葉応神天皇からあったということに驚くのである
令和とは国風文化の時代になる、だから大和魂は明治以降西欧列強に対抗するために富国強兵になったのである、そして太平洋戦争でそれも尽きた
その後は大和魂ではなく本居宣長のいうように大和心の涵養の時代になるのである
ただテレビだけではその雰囲気は感じられない、ただそれでもあの二重橋とか皇居内の
要人を接待する間は日本文化の伝統を受け継いだものだったのである
つまり日本人はそうした日本の文化を大事にすべきである、それが皇居に受け継がれていたのである
ただ昭和天皇は和歌がうまかったが後の人はそうでもないしそこが残念なのである
やはり短歌とか俳句は日本の伝統であることもこうして俳句にしたとき感じた
その季節にふさわしいものとして日本の風土の変化があり養われてきたものだからである本当に秋柳があり秋の虹がありそして富士山が初冠雪になっていたのである
そういう季節と密接にかかわり演出されたので天皇は日本の文化の象徴だと見たのである
即位5年8月に「諸国に令して、海人及び山守を定む」、即位7年9月に「高麗人・百済人・任那人・新羅人、並(ならび)に来朝(まうけ)り。時に武内宿禰に命して、即位11年10月に「剣池・軽池(かるのいけ)・鹿垣池(ししかきのいけ)・厩坂池(うまやさかのいけ)を作る」とある。剣池は奈良県橿原市石川町の石川池という
海人とは綿津見神社系統の安曇族とかのことである、それと対比して山守というとき、山彦である
この時すでに日本は国際的だったのである、なぜか任那人というのもいた、それは伽耶の国に任那が日本府があったとされるからだ、それから剣の池があった
その剣の池に行ったことがある、そこがそれだけ古いし日本書紀にも記されている
その剣の池に行ったことがある、そこがそれだけ古いし日本書紀にも記されている
剣の池我がはるけくも訪ねきて奈良の都の秋深まりぬ
あの時は名古屋から伊勢から自転車で奈良まで行った、それも遠い日になった
西でも奈良とか京都には三回くらい行った
ただ不思議なのは南相馬市の鹿島区の真野に万葉集の歌が残っている
真野の草原の歌である、これについては延々と書いてきた
そして現実に鉄作りで有名でありその工人が現実に近江の粟田郡に行き来して鉄作りを習得していた、その時代にそんな遠くまで行ったのかとなる
今なら飛行機で大阪まで行き一時間くらいで仙台空港から行ける
新幹線でも遠いから今は仕事の人はみんな仙台空港を利用している
でもそれはつまらないともなる、私は船で名古屋まで行きそれから奈良まで自転車で行ったのである、そういう旅は思い出に残るのである
何度も言うが後で思い出に記憶に残らない旅は時間の無駄だったともなる
旅したことにもならなかったとなるからもったいなかった後で後悔するのである
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