2019年10月30日

阿武隈川の歴史(江戸時代から度々氾濫の記録)


阿武隈川の歴史(江戸時代から度々氾濫の記録)

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信達平野の歴史をなぞると際限ないが、伏黒、二の袋、木幡の三村を、西根郷から東根郷に移すほどの大氾濫のあった天文9(1540)の大洪水、信夫山の南側を流れていた
松川の流路を変えた寛永14年(1637)の洪水
福島城の三の丸まで冠水した享保8年(1723)の洪水・・・・
明治になっても数年の一度は洪水があった

洪水になると洪水は河道からあふれて氾濫原を作る
水は河原の外に出ると流速は急速に弱まり水の運搬力も衰え運んでいた土砂をそこに沈積させる
すると川沿いに海鼠餅のような棒状の微高地ができる
古くはこの上に集落が発生した

福島市鳥谷野、腰浜(腰浜廃寺や郡衙があった)
伊達市の前川原、原島、箱崎(石田時成の築いた箱崎大舘は自然堤防の上にあり川跡湖の舘堀として利用していた)
阿武隈川沿いに延々とつづく集落はこの自然堤防の上に生まれたのである
その周りは湿地帯でありそこが耕地として利用された

阿武隈川の風景 高橋貞夫


阿武隈川は大きな川だからこそその流域も広くなる、堤防がないときは自然堤防ができてその上に大館のような館ができた、その周りの川の湿地帯が田圃とかになった、それは海岸が前は湿地帯でありそこを埋め立てて田んぼにしたのとにている
そして阿武隈川に古川とあるときそれは阿武隈川の一部であり流路が変わりそこに昔の古川が残った
それで川原とつく地名がその周辺に残っている、でもそれが広いので驚くのである
それは阿武隈川は大きいからそうなる

つまり地理を見る時必ず原初の状態から見なければならないのである
その地の利によって歴史が形成されてゆくからである、だから土砂が積まれてその上に舘が作られたということもなかなかこの辺ではイメージできない、なぜなら浜通りには大きな川がないからである
川を知るという時、上流から下流から全部知ることは容易ではない、阿武隈川となると大きいから余計にそうなる

なぜ今回こんなに阿武隈川で被害があったのか?
それは今だけではないここは川のカルマがあった場所だったからだとなる
カルマとはその地形が造りだしてそれがカルマとなり繰り返して現れることである
人間だと必ず苦しみとなって現れるのがカルマである
だから阿武隈川は何回も氾濫してきたのだからそれは特別なこと一回限りのこどではなかったのである

阿武隈川のように大きいとその影響が大きい、その流域も広いのである、それで阿武隈川に古川が残っているがそれは阿武隈川の一部だった、それがいまにも残っていてその流域に川原とつく地名が残っている
歴史はその川から作れていた、そこに土砂が流れて積まれて微高地になり館が作られて人が住んだとなる
そしてその周りが湿地帯であり埋め立てて田んぼにしたりしたのである
川で洪水があってもそこは生活にいい場所となっていたのである



阿武隈川水系の流域及び河川の概要(国土交通省ー河川局)
https://www.mlit.go.jp/river/shinngikai_blog/shaseishin/kasenbunkakai/
shouiinkai/kihonhoushin/031128/pdf/e4-1.pdf

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  舘矢間とは丸森町である、ここの流量が多いのは下流域になり阿武隈川の水が集まるからである
  丸森町に阿武隈川の水量が集まり角田まで広く浸水した
  他にも土砂が裏山から流れて来たとかあった

  この地図で注目すべきは福島市と伊達市と丸森町と角田市の流域の土地が低くなっていることである
  でも福島市に被害がないのはなぜか?岩沼市と同じように河川改修して堤防を強化したためか?
  何か理由はある



阿武隈川は、上流域の白河盆地を過ぎた付近から北向きに流れを変え台風の進路と同じ方向となるため、台風の北上と流出量の増加が重なり、狭窄部による影響と相まって洪水の発生しやすい地形となっていることから過去たびたび甚大な洪水被害を受けてきた。阿武隈川の洪水に関する最古の記録は「カンジュウシの洪水」と言い伝えられてきた平安時代(寛治かんじ4年)の洪水がある。狭窄部においては、古くは天和てんな二年(1682年)から水害の記録が残っている。


各平野部内では変流・乱流を極め、洪水のたびに流路が変わるような状態で、河道の屈曲が甚だしい。特に郡山地区や福島地区の氾濫原は、再々度にわたる大氾濫で形成されている。福島北部から梁川にかけての氾濫原は、広いところで 6km に達する幅を持ち、その中には無数の旧川跡をたどることができる。

この論文は読み応えがある、詳しく阿武隈川を分析している、ただ今回は岩沼では被害がない、岩沼でぱ過去に二回くらい堤防が決壊して浸水している、今回はなぜ被害がなかったのか?おそらく河川改修と堤防の強化が行われた結果なのかとなる
岩沼の堤防は大きいし高いからそうなのかと思った、そこを歩いたことがあるからだ
堤防が貧弱だと決壊しやすいのである、相馬市の宇多川の堤防が決壊したのは明治に改修されたとあってもその後なかったのかもしれない、道を作ったとかあるが堤防そのものは改修していないのかもしれない、それで決壊したとなる

とにかく阿武隈川は長く広いのである、だから流域も広い、6キロもあるとすると広い、だから一旦洪水になったら今回のように広い範囲が被害になる、川を流れる水の量も膨大だからである
学問の基本が地理だという時、その地理を風土をどう理解するのかむずかしいものとなる
阿武隈川が中通りで台風の通り道になりやすいというとき今回二つの台風がそうだったのである
中通りの阿武隈川にそって上ってきて被害になったのである、そういうふうに台風の進路も規則的になる場合がある
それで被害が大きくなったのである

この論文で注目したのが地図を見たら土地の高低がマークしていて福島市ー伊達市ー角田と土地が低くなっていた
そして丸森町でも角田市と同じく低い土地になっている
するとこの辺が水がたまりやすい、水があふれると低地に集まり安いのである
それで湖のうよになってしまうのである、だから福島盆地が湖だったというとき阿武隈川が氾濫して湖のようになったからだとなる
縄文人は川の周辺に住んでいない、山の方の高い場所に住んでいた
これだけ阿武隈川が氾濫するとなると住めなかったとなる、津波でも縄文人が住んだ場所は津波の来ない場所だった
ただ大きな川になるとその辺が良くわからなくなる

いづれにしろこれだけ大きな川となると河川改修でも堤防を作るのに国家百年の計とかなる
日本はこうして自然災害の戦いを強いられた国だったのである、それは津波でその怖さを知らしめられた
また今回の台風でもそうだったのである、私の家は街で一番低い土地にあり堀からあふれて玄関から中が水浸しになった
水がここに集まるのである、川で行く川の水は絶えずして本の水にあらずである
川の流れも変わり古川とあるのはその名残りである、川も日本の国土が変化しやすい象徴としてあった
日本の風土のカルマとしてあったことを今回の台風は知らしめたのである

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posted by 天華 at 15:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層
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