2019年11月02日

相馬市の音楽祭は災害で中止 (とちおとめが南相馬市の道の駅で演奏)


相馬市の音楽祭は災害で中止

(とちおとめが南相馬市道の駅で演奏)

秋風にバイオリンの音のもの悲しとちおとめ歌う声の流れぬ
秋風にもの悲しかなクラシックその余韻の心に残りぬ

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バンド名「とちおとめ」
栃木県を中心に北関東一円で活動。
震災以降は原発被災地の浪江町、南相馬の仮設住宅を
まわりながらミニコンサートで活動中。
最近ではデイケアサービス、道の駅、公園イベント等で演奏。
フォークソングや昭和の歌、演歌を原点とする男女のデュオ
https://www.youtube.com/watch?v=RD6GJE0mzUM

写真とれなかったけどとちおとめはyoutubeで聞ける、youtube見ていた人は知っているとなる
インタ−ネットのサイトでぱ男性だけど女性と男性で歌っていた
前でCDを売っていた、演歌系統である。



秋風が吹いている、今日も何かまだ秋の日ざしではなかった
音楽でも野外だと自然の中にひびくことになる、室内だと秋風は吹いてこないからだ
だから野外の演奏は何か楽しいとなる、また生演奏は違っている
それで音楽は生演奏を聴けというのもわかる、そこに本当の音楽の醍醐味がある
ただ地方だと生演奏は聞きにくいのが問題である
今日はバイオリンの音色が何か物悲しくひびき良かった

やはり何でも自然の中で音楽を調和するとなる、それは小鳥でも自然の中で歌っているからである
私は音楽はなかなか鑑賞できないが音楽から森とか山とか川とかなにかせせらぎの音とかそうした自然をイメージする
そうなるとまさに自然の中で野外で演奏すると音楽でも一段と心にひびくものとなる
宮沢賢治の童話に自然と調和した音楽をテーマにしたものがあった
そういうものは都会で生まれにくいのである
とちおとめの音楽は何か物悲しいひびきがあった、秋にふさわしい歌だったともなる

ともかく相馬市で音楽祭が中止になったというとき災害で自粛することになる
こんなとき音楽祭かボランティアしてくれとなる、ボランティアが不足しているからだ
でもこの辺はもうこんなに連続して災害が起きると疲れたとなってしまう
他の人でも東日本大震災でボランティアをしてまたかとなり嫌になり来ないとなる
丸森に行くにしてももうそれを見ただけで疲れる
ただどうしてこんな被害になったのかを知ることは後のために必要だし報告することに意味はある
でもそこではくつろぐということはできない、ただ寄付くらいはできるが後は何もできないからだ

そして東日本大震災では未だに原発避難区域になったところは被害者でありお前たちはただ面白半分に来たのかとなる
でもその内部の人間がどうなっているかというとフィリンピンの女性に貢ぎ補償金を使ってなくなったとか毎日パチンコでありギャンブルしていたのである
だからこれも暗黒なのである
そういう人間がどこがかわいそうなのか?未だにそういう心情なのである
今度は相馬市でもいいから丸森でも小高の人でもボランティアに行けばいいと思う
いつまでも助けられるべきだとはならない、もちろん自治体では前から倉敷の吉備だとか他にも応援に行っていたから今回真っ先に吉備の人が相馬市に応援に来たのである

俳句や短歌や詩を作っていたが何か発表するのがためらわれた
相馬市はまあまあだけど丸森は被害が大きく暗澹としてしまう、ただ相馬市でも全体が被害があり北飯淵では床上なのだからそれなりに被害があった
ただ家自体が壊れた家は一軒もないから丸森と比べるとそれほどでもないと感じる

とにかくなぜこれほど災害がつづくのかそのためにうちのめされるとなる
どうしても暗くなってしまう、リスボンの地震では地震そのものの影響もあるがそれが精神的に打撃になり冒険する気風もなくなりポルトガルが衰退したのである
それだけ自然災害は人々の心まで変えてしまったのである
災害でも私の家が洪水で家が流されるようになってから30年ほど過ぎて第二の水害になった、それも床上浸水である、でもそれから30年以上災害はなかったのである
つまり30年くらい間隔があけばこんな気持ちにはならないだろう
こうして連続して大きな災害になると打ちのめされてしまうとなる
そしてリスボン地震のように人々の心を変えてしまうことの影響が大きいのである

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