郷土史研究で失敗したこと
(広域的連携が計れなかった―津波でも隣の宮城県と一体だった)
地理的に県を見ると不自然なのである、相馬藩と伊達藩が争ったから歴史的境界として
区切られた、それは自然地理の境界ではなかった
自然地理の地勢の境界とは原始状態で定められたものだった
山があればどうしてもさえぎられるから自然境界となる
阿武隈高原はどうしても中通りとさえぎられるのである
福島県では中通りからは海が見えないのである
逆に浜通りからは吾妻山とかは見えないのである
そうして阿武隈高原で隔てられている影響が思った以上大きいのである
どうしても見えないのだか日常的に地理的一体感がもてないのである
それで南相馬市の片倉のフラワーランドから牡鹿半島と金華山が見えたとき南相馬市からも見えるから一体感を感じたのである
今回津波で大きな被害があったところは地理的に海から見ると一体の場所だったのであるだからこそ津波を知るということで共有する地理にあった
それで宮城県では実際に津波が来るということを警告していた先生がいた
津浪を警戒しろと本も出していたが受け入れられなかった
宮城県がより津波に警戒していたのは岩手県となると三陸だと明治にも一万人とか死ぬ津波があったからである、それは百年前とかであり400年前とかではない
そういうことで警戒していた、でも慶長津波は400年前のことであり警戒していても真剣には警戒しなかったとなる
それでも小名浜で東北電力の副社長だったか10メートルの高さに原発を作ったが津波が来るとして15メートルにした結果すれすれで助かったのである
これも被害があり間一髪で助かったとなる
東北電力だから地元だから津浪に対する危機感があった
それも岩沼の方まで津波が来たという伝説を聞いていてそうしたとされる
そもそも今になると巨大津波は三陸方面に明治にあったとしてそのすぐ近くに接近している石巻などが警戒していなかったというのもなぜだったのだろうとなる
東北電力で15メートルの津波が来るということで15メートルの高台に原発を作った
そうしたら石巻でも警戒してもいいはずだったのである
海に面してあれほど民家が密集していた、日和山の前がそうだった
あれをみて通った時何か不安を感じたのはやはり一つの人間的感だったのだろう
なぜならそこは道があるだけでその前に海岸も砂浜もない、すぐに海になっていたからである
この何もないことが危険だったのである
四倉では広い砂浜がありそれが緩衝地帯になり波をゆるめてそれほどの被害にならなかったからだ
緩衝地帯として砂浜もなにもなくすぐ海に面して家が密集していたのである
ただ松原などがあったらまた松原が根こそぎ流されるから大きな被害になったのは同じである
とにかく宮城県の地形は山はあまりなく海に面している地形である
岩手県でも海に面していても山も多い、区堺がありあそこは標高が高い、そこから盛岡に向かう、海に面している地域より山の国である
それは福島県でも中通りと会津は山の国である、ただ明かに宮城県と福島県の浜通りは海を通じて地理的に一体だったのである
そこで郷土史でも宮城県との連携が必要だった
伊達藩には慶長津浪の記録が残っていた、するとすぐ隣の福島県の浜通りでも津波に関心をもつべきだった
でも宮城県と福島県は別の県として区切られるから自然地理から郷土史でも郷土学でも見なくなる、それはあくまでも人間の歴史であり人工的な境であり自然の境ではないのである
だから自然災害では今の県とか行政単位で区切ることはできない、宮城県と福島県とは別だと思考していたら自然災害には対処できないのである
浜通りと宮城県は地理的には海を通じて一体であった
だからもっと津波に関心をもつべきだったとなる
宮城県では学者でもそれなりに津波に関心をもっていたのである
だからこそ女川原発でも津波を警戒して15メートルの高さに建てたのである
他でも津波を警告する本を出した人が実際に県とかにその危険性を言っていたが受け入れられなかったのである
それで学者が若林の辺りは津波が来るから危険だと警告したら土地の値段が下がると不動産業者から怒られたとかしている
ただ学者でも津波のことを警戒していたとなる
福島県では県全体でも津波に警戒していなかった
相馬藩政期で「生波で700人溺死」という記録は今回の津波の後に発見されたのであるそれまではそれすら知っている人はいなかったのである
それはなぜなのか?
宮城県と福島県と分かれていることにも原因があった
福島県単位と宮城県単位で区切って思考するからである
今回の洪水でも阿武隈川があるとしてそれを区切って見ることはできない
川は一つのものとしてつづいているものだからである
だから自然を市町村単位とか県単位で区切ることにも問題があった
それでは自然災害に対処できないからである
自然は大きな全体だからである
とにかく宮城県は海に面した国である、海洋県だともなる、だから伊達政宗が船を作り
メキシコ回りでヨ−ロッパまで行ったというのもそのためである
海への思考が働く藩であり県だったのである
海を毎日見ていれば海の向こう側は何かとか海を渡る思考が生まれる
それだけの船を作れたことも驚きである
宣教師が来て船作りとか地理でも教えられたことでそれが契機となり太平洋を渡ったともなる、戦国時代はそういう時代でもあった
それは伊達政宗が徳川幕府と対抗するとかのためでもあったとか言われる
それは明治維新になり会津がプロイセンと同盟を計り薩摩長州と戦おうとしたことと通じている、そういうグローバルな発想は山国の会津にもあった
だから東北が必ずしも閉ざされていたとはならないのである
いづれにしろ伊達政宗の発想はグロ−バルであり雄大であり東北人ではないというときそうなる
東北ではそういう大きな発想ができない、内に閉じこもる性格があるからだ
それで宮城県人は東北人ではないといのはそのためである、海洋的性格が養われていたのである
東北は後は山国的性格だからである
日本一の水揚げを誇る宮城のホヤ。
しかし、福島第一原発の事故後、最大の輸出先だった韓国が輸入禁止措置を続けている。安全性には全く問題がなく、日本は禁輸措置の解除を求めてWTO(世界貿易機関)に提訴したが、今年4月、最終審でまさかの逆転敗訴。生産地には不安と失望が広がった。
原発事故でも宮城県と福島県に別々のものではなかった
宮城県で放射能被害があった、海の汚染では共通していた、でも福島県の漁業組合は新地までであり賠償は福島県までである、特に福島県の新地までの漁業組合の補償は手厚いのである、だからそこで宮城県の漁業者は不満になっているだろう
なぜなら漁業組合でも福島県と宮城県では一方は手厚く一方はゼロに近いとなっているからだ、ただそのことでも福島県の漁業組合は責められる
内部でもなぜ漁業組合だけがこんなに補償が手厚いのかとなっていたからである
原発は福島県だけの問題ではない、その被害は広範囲に広がるから宮城県の問題でもあった
結局海でも陸地でも実際はつながっている、でも行政上分けざるを得ない
すると地理的にも分断して見てしまうのである、津波では常に宮城県の方をとかを見ていなければならなかったのである
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