2019年12月02日

みちのくの真野の草原(かやはら)の境界地図 (なぜ北と南の境界になっているのかの謎-船の線刻画)


みちのくの真野の草原(かやはら)の境界地図

(なぜ北と南の境界になっているのかの謎)

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この図もちょうど真野の草原の地点が縄文時代前期で境界の地点になっている
それは前は気候でもそうだった、ここが気候的に南と北の分かれ目になっていた
シベリアから寒さがこの地点までおりてくる
そしてマルハシャリンバイが奄美大島から種が流れ着いて根付いたとかされる
南限の地としてあるとされる、それが海老村だった
そして海老とはエヒであり蝦夷のことだった
そこは古くから人が住んでいた、それでその先端に最近古墳が発見されたのである
だから弥生時代から人は住んでいたのである

ではなぜこの図を見たとき北の方に縄文時代前期に人がかえって多く住んでいたのか?
宮城県の海岸線の方に人が多く住んでいたのは海産物がとれたからだろう
それで新地の手長明神の伝説が残された
長い手を伸ばして貝をとっていたという伝説である
その伝説は全く架空のものではない、高台に貝塚があり貝を食べていた
貝を主食としていたのである、海産物が豊富にとれていたのである
そこは高台であり新地の地形は海に近くても高台になっている
だから何か津波とかでもその高台に住んでいれば被害にあわないのである
松川浦はその頃海とか湿地帯とになっていて広い地域である
だから住みにくいことがあったかもしれない、その頃海が深く陸に入りこんでいたからである

この図からみたとき明らかに新地辺りまではかえって人が多く住んでいた
宮城県の海岸線は人が住みやすい地域だった
ただなぜ寒い地域に人が多く住み始めたのか?それが良くわからないがなんらか食料でもかえって多くあったのかとなる
とにかく日本列島は最初は北の方に人口が多く西は空白地帯だった
それで青森に三内丸山遺跡がありそこが縄文時代の国として認識された
そこから日高見の国があった、荒脛(アラハバキ)の国があった

「まつろわぬ民」であった日本東部の民・蝦夷(えみし、えびす、えぞ)がヤマト王権によって東北地方へと追いやられながらも守り続けた伝承とするもの。荒脛巾神(あらはばきがみ)ではなく「アラハバキカムイ」といい、遮光器土偶の絵が付されている(遮光器土偶は、『東日流外三郡誌』の地元である津軽の亀ヶ岡遺跡のそれが特に有名である)。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%8F%E3%83%90%E3%82%AD

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本来のご祀神は、アラハバキノ大神威。

大宮氷川神社の、門客人神社
(大宮)中山神社の、荒脛(アラハバキ)神社
の、ご祀神と同一。

出雲が本来の場所なのに、
天孫族から追われた、東北の土着神…国津神。
西アジア発生の、製鉄の一族とも
いわれている。

この神社は猪苗代湖畔にある、これが神社として残っているのはまれである
ただ氷川神社は多い、その元は荒脛(アラハバキ)神だとされる
その氷川神社は南相馬市の原町区の高平にもある
氷川神社は相当に多い、荒脛(アラハバキ)神はあるにしてもまれである
それは多賀城跡にもあり何かしらこれは蝦夷が祀っていた神である
つまりこの神は関東にも残されていて伝えられていたから関東まで広がりがある
実は出雲と蝦夷は同盟関係にあったとか蝦夷は出雲であったとか言われる
東北弁と島根とかの言葉がズーズー弁として共通性があるとかも言われる
その出雲からなぜ渡来人が関係しているのか?
そこは新羅とか韓半島に近かったからである
それで伽耶の王子のツノガノアラシトがやってきた
その渡来人は製鉄の技術もっていて東北にやってきたのである
末続(すえつぐ)という駅があるがそこも出雲系統のものである
小高の角部(つのべ)というのもツノガノアラシトのツノなのである
浪江の苕野神社(くさの神社)の起こりもツノガノアラシトなのである

元禄年間に藤橋月船という者が記した「標葉記」によれば、古老の話では、苕野の神は新羅国からやってきて請戸の小島に現れた女神であるという。この時初めて、阿部氏と荒氏はこの女神を信仰し、阿部氏は特に何もしなかったが、荒氏は小島に社を設けて女神を祀った

つまり蝦夷とは(出雲+渡来人+物部系統+東北の原住民(縄文人)+アイヌ・・・)とかの連合体だったのである
だから大和朝廷に対抗する強力なものとなっていたのである、鉄製の武器も作れていたからである、蕨刀とか自前で作っていたのである
それは製鉄技術のある渡来人が連合体の中にいたからである

棚倉に残る伝説のこの地に8人の土蜘蛛がいた。黒鷲、神衣媛、草野灰(かやのはい)、保々吉灰 阿邪爾媛、梯猪、神石萱(かみいしかや)、狭礒名と具体的に述べている。ところが征伐に来た磐城の国造が敗れたので天皇は日本武尊を使わした。8人の土蜘蛛は津軽の蝦夷に援軍を依頼 徹底抗戦した。そこで彼は槻弓 槻矢で8本の矢を放ちたちどころに射殺した。そして土に刺さった其の矢はたちまちに芽吹いて槻木となった。そこでこの地を八槻の郷という 

福島県の歴史の道の旅の回想 (棚倉→白河→会津ー(白河街道)

8人の土蜘蛛は津軽の蝦夷に援軍を依頼 徹底抗戦した

つまり津軽の蝦夷とあり蝦夷連合が津軽までありだから日高見の国とか荒脛(アラハバキ)国があったとされる、、そうでなければそんな遠くから援軍が来るのか?
道のない時代にどうしてそんなところまで来れたのかとなるからだ
この意味しているのは広範囲な連合体があった、日高見の国、荒脛(アラハバキ)の国があったからできたとなる
そして津軽(つがる)はツノガノアラシトのなまった言葉だとも推測した
ツノガノアラシトはこうして広範囲にその跡を残している
ただそれは伽耶というのが必ずしも外国というのではなく日本と一体化した国だったからそうなった、その主導権はむしろ日本の方にあったともされるからだ
日本府の任那があったとされるからだ
蝦夷が強敵だったのはそうした連合がすでにできあがっていたからである

そして真野の草原(かやはら)の地点がその境目であり大和朝廷下に服属する北の境目となっていたのである
なぜなら地図を見れば宮城県まで縄文人がすでに多く住んでいて真野の草原から南に人が住まない空白地帯になっている
とすると空白地帯だから大和朝廷でもそこに入りやすいとなる
宮城県のように先住民が多く住んでいれば簡単には入りこめないからである

とにかく真野の草原の地点はそうした境目であることで奈良の人たちに知られていたのである、そして多賀城の周辺はもともと縄文人が住みやすい場所として多数住んでいたのである、それは海産物が豊富にとれるから住んでいたのである
ただ岩手県の方は北上山地辺りに多く住んでいたのかその辺は良くわからない
ただ北の方に栗とかどんぐりとか何か木の実でも豊富にとれていたからだともなる
西が優勢になったのは稲作が導入されてからである、それは気候があたたかいから向いていたからである、ただ北は稲作と関係しないからその時代はかえって北が狩猟でも動物が多いとか鹿でもなんでも食料になるものが多かったためだと推測する
ただこの辺はまだよくわからないことがある

南相馬市教育委員会は、線刻で「船」を描いた古墳時代前期(4世紀)の土器が同市鹿島区八幡林で出土したことを明らかにした。同時代の線刻絵画土器の出土は西日本中心で、船の絵は東北で初めて

これは男山八幡神社の辺りとなる、そこは寺内であり古墳が多い地域として知られている
でも4世紀となると古い、そんな時代にこうした船の絵が描かれたものが発見されたことは貴重であり驚く
この辺は前から海が深く入り込んでいて船の行き来があった
それは塩崎の方であり船着の地名が残っていて船が頻繁に行き来していたのである
それは入江内で今の東北電力のある所に大規模な製鉄遺跡があり鉄を運んでいたらしい
だからそうした船の絵がそんなに前にあったということは早くから技術が伝わった地域だったのである
それだけ古いということはここにすでに文化の積み重ねがあったとなる
それも真野の草原として万葉集に歌われた証拠ともなりうるのである
それは寺内の前方後円墳から金銅双魚佩が発見されたと同じである
なかなかこうした船の線刻画のようなものは東北では発見されないからである


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ここはやはり古代の先進地域であった
前方後円墳がありそこに金銅双魚佩が発見されてその隣り合う地域に船の線刻画が発見された
棒状の線は(かい)のようでありそうだとすると数が8くらい見えるからそれだけの人数が乗れた船となれば
それなりに大きい船だとなる

真野明神は古代のものであり古い謂れがある、この三つとなり合う地区にあったからここが最初に開かれた場所であった
とにかく寺内から小池には古墳が多いのである、だからここは古墳の町になっている




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