相馬藩と伊達藩の境界の新地
(廃藩置県で福島県になった複雑な経緯)
境界を見ることが一つの地理の目安になるし歴史の目安になる
相馬藩だと伊達藩の境が新地になる
新地はもともと伊達藩に属していた
駒ヶ嶺城は伊達藩の城である、だから相馬藩との争いがあり興亡があった
でもそこは平地だから自然境界ではない
ただ相馬藩と伊達藩は飯館村でも争っていたし丸森でも争っていた
それは木材資源をめぐっての争いだった
丸森では米沢はんも加わって三つの藩で木材資源で争ったので知られている
それだけあの辺は森林地帯であり木材が多くとれた地域だったのである
丸森の金山城は峠を越えて入った所にありその城は一時は相馬藩の人が治めていた
それから伊達藩の侍が治めるようになった
だから一時は相馬藩領だったのである
それで面白いのは方言である
新地の人がだっちゃだっちゃという、仙台でぱ語尾にだっちゃというからわかりやすい
だっちゃという方言の語勢が何か攻撃的なのである
一方で相馬地域はんだんだであり口ごもるずーずー弁になる
だからちこのだっちゃは東北弁のズーズー弁と異質なのである
それで宮城県は東北ではない東北人ではないというのもわかる
第一伊達政宗のような国際人というか演技力まであり英雄は東北人ではないとなるからだそんな外交力が東北人にないからである
何か一般的に陰気で口ごもるとか口達者ではないからである
ただ相馬総合病院で入院して同室だった人が丸森の金山の人だったのである
それてんだちゃと言っていた
相馬ではんだんだというがんだちゃとは言わない、それは金山に城があり一時相馬藩の侍が城主ともなっていた
するとそこで仙台弁と相馬弁が合体したと推測できる
方言は訛りはお国の手形だともなり地域性を感じやすいのである
それで青森の津軽藩と南部藩の言葉は違っていてすぐにわかるという
ただ津軽藩と南部藩の境目に山があり自然境界として分かれている
丸森も峠を越えると相馬藩になり峠を下ると丸森に出る
自然境界としてある
不思議なのは福島県と宮城県に分かれた経緯である
新政府は東北の広大な地域を分割して支配するために明治12年に磐城、岩代、陸前、陸中、陸奥の五か国に分割した
角田県は磐城国に属した、今でも宮城県の南に入る名取郡各郡に,磐城○○という地名があるのはこのためである(新地史)
磐城太田駅があるけどそれももともと古代に磐城国があり名付けられた
ただそれは明治以降に名付けられた、最初は高駅であり古代の高郷に由来しているし近くに多珂神社がある
ただ磐城とつく地名は葛尾村の落合とかにもあり磐城落合となっているのだ
だから磐城国は広い範囲でありその名がついた
でも古代からある国名でもそれは明治になって名付けられたのである
磐城とあるとき地名だけども姓ともにている、姓は一人のことではない一族を示しているからである
とにかく宮城県内に磐城とつく地名があるのはこうした経緯がある
新地は相馬藩内と伊達藩として分断されていた福島県に入った
でも境界地域として複雑な経緯をへて福島県になったのである
境界でも山とか川とかで自然境界になっているのはわかりやすい
でも政治的行政区域になるとわかりにくい、廃藩置県でそういうのが多くなったから県単位では県としての歴史とかでも地理でも一体感がないのである
ただ伊達藩と相馬藩は戦国時代は争ってもその後は隣り合っているから協力した
伊達藩から神様も勧請された、小牛田の山神信仰とかその他いろいろな仏教信仰とかも入ってきた、相馬から妙見信仰が勧請された
こんなふうに協力して栄えたとなるからどうしても相馬藩は福島県ということに違和感がある、そもそも福島県は本当に一つの県にすることは無理だった
地理的にも歴史的にも無理だった
むしろ宮城県に属していた方が良かったかもしれない、廃藩置県になるとその範囲が広すぎたのである、だから人為的人工的行政区分であり未だに違和感があるのだ
それで今回の津波で太平洋に面しているから南相馬市の片倉のフラワーランドから見えたから牡鹿半島と金華山が見えたから一体感を感じた
相馬藩内には金華山信仰がありその碑もある、何か福島市となるとつながりがない
ただ霊山になると吾妻山が見えるから地理的一体感が生まれてくるのである
ともかく伊達藩は相馬藩より古いから歴史的に学ぶことが多い
新地にあった文禄の碑は私が見た碑では古い、他にも墓地とか碑を見れば古いものがある宮城県に関してはなかなかそこまで見ていない
屍骸骨山のいたるところに横たわり、鳥獣の餌となれり、屍を運び骨を拾い、累々これを一穴に埋める、これを戦死塚と称す
駒ヶ嶺城では町屋も火事になりかなり消失して数十名が戦死した、つまり民家も被害があり悲惨だった、丸森には伊達藩が大砲を備えて戦った跡が残されている
相馬藩は薩摩長州軍に早めに帰属して伊達藩と戦ったのである
駒ヶ嶺城は境の城だからそうなったのである
ただ新地になるとまだ地理的にわからない面が多い、この地理がわかるのが近くても容易ではないのだ
新地で印象に残ったのは街内の神社にあった「文禄の碑」である
それは明らかに検地のためだったのである、年号だけを記しているのはたいがい検地の記念だったのである、伊達藩では大規模に文禄に検地をしていたからである
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