2019年12月15日

自然とはそもそも何なのか? (自然に逆らう破壊しないと生きられなかった人間の業)


自然とはそもそも何なのか?

(自然に逆らう破壊しないと生きられなかった人間の業)

自然という時、その自然という概念が何なのかとなる
自然エネルギーは自然を破壊しないからいいという
ところが人間が存在したときから自然は破壊される運命にあった
なぜなら人間以外の動植物は自然を破壊したりできない
動植物自体が自然の中でしか生きられないからである
つまり人間が存在しなければ自然は神が創造した時のままだったのである
そういう世界では神の知恵で自然は治まっていた
自然の天の則(のり)は越えることがなかった
越えることはできなかったのである

でも自然とは何かというときそれが正確に把握されていないのである
何が自然なのか?何が自然でないのか?
ただ人間の業(技術)は自然に逆らうものとして生まれたのである
また自然に逆らわないと人間は採集狩猟時代にとどまって発展しなかった
縄文時代に日本列島に20万人くらいしか住んでいなかったとなる
そこでは鬱蒼とした森で覆われていて人が住んでいるとしてもほとんど森に隠されていたのである、そういう光景を見たら息をのむような自然そのもの美しさに驚嘆したとなる
つまり人間の生活が隠されていたときこそ自然は最も美しく映えていたのである

なぜ神道が生まれたかというとそういう太古の息をのむような日本の自然があって生まれたのである、その手つかずの自然の清浄圏で日本の神道が生まれた
その時、建御雷(たけみかづち)の神のような武神は存在しなかったのである
縄文人がなぜ一万年も平和に争いもなく暮らすことができたのか?
その謎は逆説的だけど動植物のような暮らしをしていたからだとなる
動植物は自然と和合しないかぎり生きていけないからである
それは神の則(のり)の中でしか生きていけないからである

でも採集狩猟時代から農業時代になると自然破壊が起きたのである
農業こそが文明であり自然破壊の張本人だったのである
なぜなら原始的な農業の焼畑でもそうである、それは肥料とするために森林を燃やして灰を肥料としたからである
農業にとって肥料が最大の問題だからそうなった
大規模な自然破壊は農業からはじまったのである

縄文時代に森林におおわれていたこところが農地になった、縄文時代には日本列島に20万人しか住めなかったのが農業時代になると飛躍的に人口が増えた
それは森林の破壊があったからである、たいだい今田畑になっている所は森林だったからである
とにかく日本の原始時代をみれば森に覆われているから暗黒なのである
森の中は暗いのである、それで遮光土器の土偶の目があんなに大きいのか?
これはやはり森が暗いから大きく目を見開いて見るために目が大きくなったのか?
ただ目が人間にとって重要なものとして認識していたためであることは間違えない
今でも見ることはseeは知ることだからである、それは外国でも同じなのである

そして農業が飛躍的な人口の増加をもたらしたというとき農業は一見自然のように見えているけど違っていた
農業と鉄器は密接に結びついていた、石器の鍬と斧とかではまず農業は発達しない
石器で稲を刈っていたりしたことがあったがそれでは農業は発展しない
そこでどうしても鉄器が必要でありその鉄器の発明で飛躍的に農業が発展して人口が増大したのである
だから鉄器が農業文明を作ったとなるのである

だから古代からの歴史を調べるといかに鉄がかかわっているから古代史のことで延々と書いてきた、そして南相馬市の鹿島区の真野の草原(かやはら)は鉄の一大生産地として
奈良の都に知られて万葉集に残ったということを書いてきた
鉄の発明がいかに人間にとって重要だったかである
だから古代史は鉄をめぐる争いであり鉄を中心にした歴史なのである
伽耶国(かやこく)からツノガノアラシトが来た、渡来人が来たのは鉄を生産する技術をもっていたからである

そしていかにツノガノアラシトが東北で最初に地名化したか、この辺だけでも神社でも
角(つの)とつくのはツノガノアラシトなのである、津神社が多いがこれはツノ神社のことだった
相馬市の津神社もツノミツ神社のことでありツノガノアラシト系でありツノとなればここに由来しているのが多いのである
荒巾木(あらはばき)とか蝦夷の原住民がいたとしてその荒もツノガノアラシトのアラなのである、つまり蝦夷とはいろいろな人がいたにしろツノガノアラシトと原住民が合体したのが最初の蝦夷だったともなる
それだけ古くからツノガノアラシトが入ってきて東北にその痕跡を残したのである
ただこのツノガノアラシトは伽耶国の王子としても日本の一部だったからこそ日本と一体化していたからこそこれだけの痕跡を残したのである
第一稲荷神社というとき稲荷は鋳成りであり鉄を祀ったものなのである
農業は稲作は鉄と不可分に結びついた文明だったのである

農業は大規模な自然破壊だったのである
それを証明したのが津波だった、海側を干拓して田を作った、そこに塩害を防ぐために
松原を作った、鹿島区の右田の松原は本当に幹が太くいい松原だったのである
それは江戸時代にできたから成長してそうなっていたのである
その松原が津波で根こそぎ破壊されたのである、これも信じられなかった
そこで気づいたことは松原が人工林だったということである

松原は自然ではなかった

つまり自然とは何かというとき田畑も松原も自然ではない、果樹園でも自然でないとなる人工的な産物であり自然そのものではない
そして松原は津波には弱かった、根が強く張らないからである
もし自然林だとするとそこにいろいろな種類の木が生えていてあんなふうに根こそぎ流されなかったかもしれない、自然林だったら松だけの森はない、ただ林というときこれもハヤスであり人工林になる、人間は生やして作ったものだとなるからである

ともかくこの自然は何か?そこが最初に問題になっているのだ
人間は生きるために自然を破壊しなければ生きていけないという業(ごう)を持っているそれが人間の歴史であり世界共通なのである
人間の業というときそれは世界共通なのである、だから世界の歴史もそうして人間の業からみれば共通しているから理解できるとなる
同じ人間であるからこそ同じことが歴史上に起きて来る
だからギリシャ神話などでもそれが日本人でも人類なら理解できる


プロメテウスはそれでも、どうして人間に火の贈り物をしたらいけないのか、教えてもらいたかった。ゼウスは「もし人間に火を持たせたら、人間は神同様、強力な存在となろうとし、オリュンポスを荒らしにやってくるだろう」と答えた。しかし、プロメテウスは、この回答に満足せず、翌朝、日の出の火を少し盗んで人間に渡した。

火を与えられて、人間は幸福になっただろうか。人間は洞窟から外に出た。夜道を照らす松明。調理された食物。赤々と燃える鍛冶場。鋤、剣、槍を作る。兜をかぶり、戦争に出かける。プロメテウスは人間に文明と技術をもたらした。

プロメーテウスをカウカーソス山の山頂に磔にさせ、生きながらにして毎日肝臓を鷲についばまれる責め苦を強いた。プロメーテウスは不死であるため、彼の肝臓は夜中に再生し、のちにヘーラクレースにより解放されるまで拷問が行われていた。その刑期は3万年であった

ゼウスから神から火を盗んだのが人間である、そのために過酷な刑罰が課せられた

その刑期は3万年であった!

原発事故でプルトニウムの毒がが二万年たたないと消えない!

まさにこれと同じだったのである、それほど過酷な刑罰でありそれが原発事故で起きたのである
だから神話というのはこれだけ先の人間の運命を暗示して生まれたのである
人間の業は必ずやがて苦しみとなって現れる、それは個々人的にはカルマである
かならず60以降は人生のカルマが苦しみとなって現れる
人間は過酷なカルマを課せられたものだったのである

そして自然というとき何なのか?
エネルギーを考える時自然とは何なのか?
必ず自然に逆らうもの自然を破壊するものとして科学技術もある
水力発電が水の流れを利用するからいいとかダムがいいとかなるがそれも自然に逆らうものだから自然エネルギーではない、それは今回の洪水で証明された
ダムは自然の流れをせきとめるから自然ではないのである
そこで放流して下流で6人死んだとか現実にあった、ダム自体が実は危険なものだったのである

そして太陽光発電とか風力発電も自然に逆らうものであり自然エネルギーではない

それは偽善エネルギーとして武田邦彦氏が指摘している
風力発電が一見自然の風を利用しているから自然エネルギーでいいとみるがそうではなかった、風というのものの自然での働きはいろいろあり風力発電はそれを阻害するのである思うに自然に逆らうという時、景観を破壊するのは自然ではないと見る
風力発電でもソーラーパネルでも何でも自然景観を破壊するのは自然ではないとみる
田畑が自然だと見るがそれももともと森林を破壊したものだった
何かしら必ず自然に逆らうものは自然を破壊しているのである
素人でも風土的にソーラーパネルとか風力発電とかは日本のようなな狭い国ではなく、とてつもなく広い土地がある所に向いていると直感する

自然界には「エネルギー保存則」があり風のエネルギーを電気に変えればその分だけ風のエネルギーが弱まる
つまり風車の風上と風下では風速はかなり違ってくるのです
樹木が育つのも葉の表面から水分が蒸発するからです
風が弱くなればそれだけ樹の成長は抑えられます
土も乾燥するのも風が吹くからです
風が弱くなったら土の表面はいつもべとべとして苔が生えるでしょう
「偽善エネルギー」武田邦彦

植物の呼吸

体温調節

水分の発散

植物は昼間に葉から水が水蒸気となって蒸発することによって水を吸い上げる力を生ずる

つまり葉でも植物でもぬれたままでは水分を蒸発できない、すると新たな水分を吸収できない、水分を蒸発させるためには風が必要だとなる
だから津波で破壊された所にソーラーパネルが敷き詰められて風力発電の風車が作られた場所に植林してもその木が育つのか?
それが疑問になったし景観的にもそこはもう回復しないのである
いづれにしろ風力発電も自然のそうした作用に逆らうものなのである

そして石炭とか石油は自然のエネルギーだという、なぜならそれは石炭ならもとは木であり石油も自然の植物であれ動物であれ有機物が貯えられたものだからである
だから武田邦彦氏は石油と石炭のエネルギ―利用は肯定しているのである
それは自然エネルギーだからとなる

ともかく原発事故も石器時代から鉄器時代と文明の発展の結果として必然的に起きてきたのである、だからこそプロメテウスの神話がこの辺で現実化したことの驚きだったのである
自然エネルギーというとき言葉からして誤解を生みやすいのである
ソーラーパネルも風力発電も洪水でこの辺ではとまった
風力発電の風車は台風以来とまったままである
電源装置が水をかぶったので動かくなくなったのである
ソーラーパネルも一部分低い場所にあり湖のようになり水につかってとまった
あれも意外だった、だから必ず人間の作った人工物は自然災害にあう宿命にある
それはそもそも自然に逆らうものだからである

とにかく文明が発達した時、縄文時代なら自然に逆らうことはほとんどないから一万年持続したとなる、農業文明も一応自然に逆らうものとしても自然と調和する面があったからエジプト文明でも3000年とかマヤ文明でも中国文明でも日本文明でも2000年3000年と長くつづいたのが特徴である
でも20世紀からの産業革命では加速度的にエネルギーの消費が天文学的に増大したのである
だから百年でエネルギーを農業文明の何百倍何千倍何万倍なのか計り知れないエネルギーを消費するようになりその行く着く先が原子力に頼るようになりこの辺で人が住めなくなる事故になったのである
だから文明自体がそうして自然に逆らい神に逆らい加速度的にその進歩もとめられないから最終的にはその業のために滅びるとなる
そういうことが現実化したのがこの辺であり原発事故だったのである

windpower111.jpg

台風以来泊まったままの風力発電の風車

電源装置が水にぬれたのである

ソーラーパネル自体が水をかぶった所もあった

結局自然災害でこれらも使い物にならなくなまことがある

あくまでも本体の補助であり主役にはなれないのである




posted by 天華 at 11:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連
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