精神性を文化を追及すらなら田舎か地方都市
(都会は経済科学技術しかないー精神性は追求できない)
田舎と都会の相違はただ経済とかからしか見ない、都会には多様な仕事がありそれぞれの才能が確かに発揮されることがある
田舎でぱ職業というと農業や漁業や林業とかあってもそれが衰退した
結果としてこの辺では原発を誘致した
原発の経済的効果は抜群だったのである、だから本当に原発で働いていた人が多い
飯館村でも働いていたのである
おそらく日給とかにしても三倍にもなっていたということも聞いた
それだけ原発は金のなる木だからみんな賛成したのである
その経済普及効果は地域にとってあまりにも大きすぎたのである
それで高浜町ではその斡旋するボスが助役が殿様みたいな豪邸を建て利権を得ていたのである
それは知らなかったが漁業権を売り渡した漁業組合とかで船主は原発事故前から原発御殿を建てていて周りからうらやましがられていたのである
港があってもみんな漁業をしているわけではない、船主でもないからだ
とにかく現代とは何か?電気社会なのである、電気なくして日々の生活すらできない
だから貧困者は必ず電気をとめられている、それも毎月なのである
料金をとどこおると即座に電気がとめられて生活できなくなるのである
そして原発事故のとき原発で電気工事関係者1000人も働いていたというから驚きである
それだけの雇用があるのが電気事業なのである
私は田舎で追求してきたのはそうした仕事ではない、私は30年間ひきこもっていたのだからそうした仕事と関係せずに生きていたというのも不思議である
そういう家庭環境にあり別にとがめられることも一切なかったのである
それだけ家に生活の余裕があったからそうしていたのである
別に親から働かなくてもとがめられたこともないのである
だからこれは特殊な家庭環境でそうなったのである
親にニートが殺されたけどそんなこと絶対にありえなかったのが自分の家だったのであるだから最後は恩返しに懸命に認知症になっても親の介護をしたのである
それで多少は恩返ししたとしてつくづく良かったなと思った
それがなければ相当に後悔したことになっていたのである
田舎とは何か?それはcultivate(耕す)からcultureになったことでその言葉が明確に象徴している
言葉の生まれる背景にはその背景に生活の現実とか自然の現実があり生まれている
スレーブとはスラブでありスラブ民族から生まれている
それは奴隷の意味だったのである、それでドイツがアーリア人であり東欧からロシアはスラブ民族で劣っている民族だから優れた民族に従うべきものとしてロシアとの戦争で3000万人が死んだというのも驚きである
つまりスラブ民族が奴隷民族だという意味である
説はあるにしてもその言葉が語ることは歴史を語っているのである
田舎とは地方都市でも経済とか科学技術とかでも富を得ようとすることは変わりない
でも田舎の場合はもともと文化が耕すから生まれたのだからそのよって立つべきものが
その大地であり自然だった
実りをもたらすのは自然だったから自然にアイディンティティを求める
そこが田舎と都会の大きな相違である
ただ都会という時、地方都市は言うのではなくイメージするのは東京のような大都会なのでなしる、それはモンスター都市でありそこで追求されるものは何なのか?
もう精神性とかは関係ない、物質的なものしかない、そこにアイディンティティを求めることはできない、東京砂漠とかなってしまうのである
例えば人間は自然があるとする、確かに自然は食料を提供するし材料を木材でも何でも提供する、石でも土台になるし材料としての自然がある
でも一方で自然と一体化アイディンティティ化しようとする、精神性を追求する、
それは山でも崇高さとか厳粛さとか精神性を人間が自然に付与するのである
だから高い山がない所ではそうした精神性が育たないから偉人がでないというのも納得するのである、毎日富士山を眺めていたら何か心も必ず高められるからである
ここにはまず蔵王が見えるにしても高い山がないからそうした精神性が備わらないとなるのだ
精神性を追求する時、これまでグロ−バル経済を批判してきたがグロ−バル経済ではただ地球から物が入ってきてもそこから精神性は備わらないのである
葡萄でもそれが実っている場所にあってこそその実り何でも実感するのである
葡萄が実るに適した場所がありそれは川岸とか湖の側とか何か光でもいろいろ自然が関係しているのである、それは野菜でもその土地と土とから生まれる、そこで特産物が生まれるのである、食料の場合はその土地と一体化して生まれる
文化もまた同じなのである、その土地の風土と一体となり生まれるそれが文化なのであるだからただ物が入ってきてもそこで精神性文化は追求できないのである
だから私の偏見かもしれないがワインというのは日本に合っていない
そういう風土にもないし文化もないからである
何かいろいろな食料でもみんな外国産を輸入しているのは間違っているのかもしれない
それが食料が文化の基本にあることは確かなのである
日本料理は日本の風土とか文化から生まれたからである
ワインとパンはあっているが日本食は日本食であり合わないのである
いづれにしろグロ−バル経済はいすいろな点で限界に来ている
そこには道徳もないしただ物だけが入ってくる
そして世界的に豊かになるからいいではないかとなるが実際は世界的天文学な格差が生まれたのである、世界的共同ではない、富が奪われるシステムだったのである
国際資本家が金融を牛耳るシステムであり公平な市場での取引ではないのである
そして食料でもその国の風土にあったものがありそれも無視されるのである
世界が第二次世界大戦で破局的なものになった、何千万人も死んだというのはグロ−バル化した世界の結果だったのである
むしろ国々はその国の風土と歴史に根ざした国造りをするべきでありかえって貿易はもしかしたら必要最小限の方が良かったとまでなる
それが中国で政治で苦しんできた老子の小国寡民の思想になったのである
なぜなら貿易が盛んになると同時に摩擦が激しくなる
経済戦争になるからである、絶えず食料でも輸入していると何かもめごとがあると食料でも入らなくなる
それは国同士だと信用がない、何かあると戦争までに発展するのが国なのである
そして国が違うと食の安全など関心がなくなる、売ればいいとなるのである
アメリカでも日本の国などなくなってもいいとか中国でも小日本がなくなっても民族が滅びてもいいとなまでなる、それは第二次世界大戦でナチスがロシアに進攻したときそうだったのである
日本は島国で孤立した宇宙だから同じ民族同士だから敵味方塚として戦争しても供養している、中国だと墓を暴いても敵を罰して許さないのである
民族自体の殲滅を計る、それが大陸国家なのである
とにかく東京のような大都会からは文化は生まれない、そこは巨大な胃袋になっているだけなのである
パリの人口でも市内だと300百万くらいであり少ない、だから文化都市でありえた
ヨ−ロッパには東京なような巨大マンモス都市はない
歴史的にも地方都市が繁栄してルネサンスがあった、フィレンツェでもそうである
5,6万しかないとしたら原町とかくらいの人口だったからである
そこからあれだけのものを芸術文化都市になったのである
地方都市の充実がありそこで天才も育まれたのである
ただこれから少子化で人口が日本で減る時東京の人口もへる
すると田舎の地方都市が充実する時代になるかもしれない、江戸時代は江戸があっても
地方がそれぞれに経済でも文化でも育んできたからである
ただ地方といっても大きな地方でなければ今は成り立たない
東北だったら東北政治経済文化圏を作る構想が必要になる
東北という風土と歴史でアイディンティティ化するのである
そうすると精神性が追求できるのである、それを自分は詩とかで追求してきたのである
ドイツの都市の人口は大きくて300百万人である
後は50万以下が多い
いかに地方都市社会になっているかわかる
いづれにしろ次の時代がどうなるか予測はできない、時代の傾向としてはグロ−バル経済の見直しがありまたもう資本主義が銀行が投資先がなくて破産するとかしきりに言われるようにゆきづまっている
そして日本に成長産業がなくなり農業が見直されているのも時代である
日本の農業は何かきめこまく技術的に優れているからである
だから耕作放棄地がこれから活かされかもしれない、またそうしなければ日本自体が生活すらてきなくなるかもしれない
戦後は引揚者が開墾にいたるところに辺鄙な場所に入った、それは働く場所がなかったからである、でも結果的に半分がつづかずやめたのである
その時高度成長時代になり仕事が増えたからそこに吸収されたのである
原発事故周辺でも街の回りが草ぼうぼうになっている
するとその土地を大規模に利用できる、それで外から農業を始めた若い人がいる
そういうチャンスもは一方で生まれているのである
東京のような大都会では精神性は文化は追求できない、どうして高層ビルとかと精神的に一体化できるのか?建築でもルネサンスのようなラファエロのアテネィの学堂のような壮大な絵巻物は作れないのである
そこにいるのは精神的に高揚された人間がいるのである
東京砂漠には人間はいないのである、ただ経済的単位の数値化した統計化した数量化した人間がいるだけである
宗教はカルト教団であり一票として数として計算されるだけである
そこに一人一人の個性を見ないのである、要するに数としてしか見ていないのである
数が民主主義では権力なるからである
それはすでにギリシャのボリスで始まっていた、世界は数であるという感覚が生まれたのも哲学が生まれたのもそうである
あのようにボリスにしても一二万の規模でもそうなのである
それは貨幣も生れて数量化の思想が生まれたのである、貨幣は人間性を奪ったのである
貨幣が万能になると人間は数量化される運命にすでにそんな古い時代からありそれがグロ−バル経済で極端化したのである
だから次の時代は高度成長とか経済の時代から文化芸術とかの時代である
奈良時代は唐風の文化が入った時代であり次に平安時代がかなを発明して国風文化になり女性が活躍した
次に鎌倉時代になりこれも宗教の分野で仏教は日本化した民衆化した時代であり東国の武士の文化の時代だった
それから戦国時代になり安土桃山時代が国際的な文化があった
そして江戸時代300年がありこれも国風文化であり明治維新でもまた外国文化が入り第二次世界大戦で日本は負けた、それで高度成長時代になり今度はアメリカの物質文化の繁栄の時代なにった
そしてやはり時代のサイクルとして文化の時代、国風文化の時代へ回帰するのが日本の歴史だとなる
明らかなことは文化が華開く時代なことは確かである
つまり高度成長とか経済が繁栄した後に宗教とか思想とか文化芸術の時代になる
みちのくで考えればここも歴史と風土で培われてみちのくになった
関東とは別なの領域なのである
それで平泉の栄があったがこれも三代で短かくして終わった
その繁栄は千年の都の京都とかにはならなかったのである
それがまたみちのく的だとなる
三代に終わる栄やみちのくの枯野のあわれ風唸るかも
旅に病んで夢は枯野をかけめぐるー芭蕉の句はみちのくの枯野だったのだろう
「奥の細道」はまさにみちのくの風土を俳句という短いものに凝縮させたのは驚きであった、そういう俳句は今ではもうできないが何か依然としてみちのくの風土がかもしだすもの歴史がかもしだすものはありつづけている
北海道とみちのくは東北は全く違ったものになっているからだ
北海道はそうした歴史とかないし風土が違っている、むしろ明治以降の開拓の歴史として新天地としてフロンティアとして意識されるのである
アイヌがいたにしても何か北海道の風土は歴史感覚は明治以降に培われたものなのであるただつくづく日本は島国なのだけど多様である
平坦な大地がつづくだけではない、多様な風土に地勢がありあきないとなる
満州のようにな地域はただどこまで言ってもトウモロコシ畑であり汚い大きな川が流れていて何か変化がないのである
だから日本という国は旅するにはいい国だと思う
常に山から海からと変化してゆくからである、だから日本を旅するだけで一生は終わるとなったのである
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