2019年12月25日

スーパーキクチのカード紛失(続) (貨幣と紙幣とカードがありカードは有価証券なのか?)


スーパーキクチのカード紛失(続)

(貨幣と紙幣とカードがありカードは有価証券なのか?)

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 有価証券の所持人
原則として権利者として推定される   

 現金の所持人
券面の所持人は権利行使の際に権利の立証を要しない


<紙幣・コイン管理のリスク・コスト>
 従業員等の労務管理
内部・外部の盗難・強盗発生のリスクがある

物理的な紙幣・コインの管理

釣銭の確保・維持が必要となる
盗難防止のための措置が必要となる

経理上の金銭管理

データ化,集計に手間がかかる


キャッシュレス社会はさけられないことを書いた、貨幣は貨幣自体に価値があった
金銀の貨幣だとそれ自体価値があり小判だと金なのだからそれ自体に価値がある
ただ紙幣になると紙になるのだからそれ自体には価値がないのである
それは証券とか債権とにているのである
銀行に貯金しているのは銀行が顧客から借金したというとき債権化した
借りた金だから本当は必ず利子をつけねばならないのが理屈である
金貸し時代はそうだったろう、金を貸して利子をとるのである
実際にもし銀行にあづけて利子をもらえなかったら銀行は何になるのか?
ただ金を安全に保管している貸金庫のようになる
それは誰でもできるし銀行というものではないだろう
巨大な絶対に入れない金庫を作ればいいのである
そこには暗証番号とか鍵とかで入れないようにしておく、貸金庫と同じである

今回のスーパーキクチのカードが紛失したのはそのカードが実は紙幣と同じだったのである

有価証券の所持人

原則として権利者として推定される   

現金の所持人

券面の所持人は権利行使の際に権利の立証を要しない 

もしカードがこのように有価証券の所持者となっていれば原則として権利者として推定される
でも現金の所持人だったらカード(券面の所持人は権利行使の立証を要しない)
これは権利者として認められないということなのか?
現金を落としてもその現金を落とした次点でもう誰の者かわからない
その金を使ってもその所持人は別な人に完全に移行したのである
権利が移行したのである
本当だったら盗んだものとなるのだがもう誰の者か特定できないから権利を消失したのである

だからかえってタンス預金とかが危険になるのは盗まれた時点で何らか消失した時点で
その権利は消失しているのである
その金が誰の者か立証できないからである
銀行だと誰があづけたかわかるしその金を所持者を特定できる、つまり権利者を特定できるのである
だから安全なのはタンス預金ではないし現金を持つことでないとなる
今回のスーパーキクチのカードは現金と同じだったのである
一万チャージして8000円残っていてもそのカードを落として返ってこなかった
すると取り戻すことが不可能になる
でももしそれが証券とか債権であればそうはならない

有価証券の所持人

原則として権利者として推定される

権利者が特定できるからカードをなくした時点で連絡すれば使えないようにできる
使ったとしても実はその拾ったカードを使うとわかる場合があるかもしれない
いづれにしろ落としたことを連絡した時点で使えなくなる

ただスーパーキクチのカードは一万とか5000円とか限定してチャージして使えるのであるだからそれ以上は使えないカードなのである
ところが他のカードだと無制限に使える場合があるから危険なのである
大きな買い物もできるとなると危険である
だからなくした時点ですぐに連絡する必要がある

何かここでわかったことは金を持っていてもタンス預金だと盗まれたり消失した時点で
何の権利もなくなることである
でも銀行に預けるということは第三者が保証していることなのである

江戸時代だとそういう仕組みとにたものがあったにしろ現代のようにあらゆるものが数字化して証券債権化する社会ではなかった
貨幣でも小判とか銀を使用してその貨幣自体に価値があった
紙幣はなかったからだ、紙幣は証券債券になるまえのものとして生まれていたのである
それ自体には何の価値もないが金として認定されたものだからである

いづれにしろ私自身が大学の経済学部を出たしても何にも勉強していないのである
ただそれは名前だけなのである
おそらく経済を勉強するなら百万くらい与えて株とかいろいろ投資を学ぶことである
ただもう老人には推奨できないのである、その仕組みでも複雑で理解できないからであるただ現代の資本主義社会とかグロ−バル経済を理解するには銀行のことを知らねばならない、それで銀行とかかわりそれを理解しようとしたのである

とにかくキャッシュレス社会はさけられない、するとそういう社会は理解する必要があるそれはコンピュター社会の発展したものとして必然的にそうなったのである
なぜならコンピュター化しなければありえないことだった
IT化社会というのもそうである、コンピュターは記録することが人間より格段に優れているからである
あらゆるものを記録するのである、買い物でもすべて記録される
するとそこからその人の買い物をみてその人の性向までどういう人なのかまである程度わかるのである
それでアマゾンではその人の欲しいものを提示するのである
だからコンピュター社会とはいろいろあるのだが何でも記録する社会だということであるそれで犯罪者の名前が前科となりコンピュターから消えないと訴えるものもわかる

コンピュターは記憶装置であり膨大なものを記録できる
個人の記録でもそうである、いくら書いても負担にならない、それが記録される
だから自分の書いたものでも忘れているのが人間である
本当に自分の書いたものでも文章でも詩でもこんなことを書いていたのか読み直しているのも不思議なのである
人間ほど忘れやすいものはいないのである
だから過去になると膨大なものが忘れられてしまった、記録に残らなかったのである
すると歴史でも過去でも探ることがむずかしくなるのである

例えば相馬藩とかで相馬藩政史に慶長津波の二行だけ生波(いくなみ)で700百人溺死したと記されていたのである
それがいかに貴重なものだったかわかる、それ以外の記録が皆無だったからである
記録はこのように大事なものであり記録がないと証拠にもならないから悪いことした人でも裁判になれば負ける
裁判で必要なものは証拠だからである、証拠がないと有罪にされないのである
だから何らかの証拠を探すことが必要になる、メモでも何でも必要になる
ただこのコンピュターの記録する能力は無限である
でもまた反面一瞬にしし電子記録が消失する危険がある
これもまた常に恐怖していないとならないのである
本でも冊子でもなんでも紙に書いていた方が残る場合がある
だから記録の保存という点では必ずしも万全ではないのである
そうなると後世に残すにはやはり石碑のようにして記すほかないともなるのである


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