明治維新で北朝ではなく南朝を継続した
(野馬追いに出ている南朝の旗)
鹿島区街内の出陣式
鹿島区の旗印ほ菊の紋
後醍醐天皇は、既成貴族層の解体と再組織を狙っていて、旧来の「天皇対貴族」という関係を打破して、「天皇絶対」のための官僚組織を作り出すことを最大の目標としたのでした。
北畠顕家の諫奏に見る後醍醐天皇の失政
南北朝の戦いは複雑でわかりにくい、でも最近加治将一氏の本を読んでそうなのかと思った
明治維新は南朝を継いだのであり南朝の思想が反映された政権だった
それが巧妙に隠されていたのである
西郷は南朝の九州武将、菊池家の子孫だ、家紋抱き菊の葉と菊、西郷の変名は菊池源吾
逆から読めば(吾源は菊池なり)西郷はあくまでも菊にこだわりまた南洲という名も使用して南朝への思い入れは凄まじいものがある
官軍がかかげた錦の御旗、菊の御紋は当初は西郷軍を鼓舞するものだったのだろう
もともと天皇家と菊の縁はそれほど濃くない
戊辰戦争でやかましく浮上しただけでむしろ薄い
菊と水は楠公(菊水紋)の家紋である
野馬追いに出ている菊の紋の旗は南朝由来である、菊池とは菊の紋のことである
西郷は南朝の九州武将、菊池家の子孫だ!
この菊の紋の旗は鹿島区の街内で一軒確認している、あと二軒も確認している
鹿島区は真野中館に南朝の城の霊山が炎上して落ち延びてきた落武者が子孫の人が多い
只野氏はその中心人物だった、その人は同級生であり街の中心に住んでいる 、只野の姓が50人くらいいるのだ
有名な真野のお浜下りに「つづら馬」というのがある。つづら馬とは馬につづらをのせて荷物を運んだ。
霊山城で南朝が滅んだとき落ち延びたことを由来にした祭りなことは知られている。
それは真野の中館に落ち延びたのは桑折氏であり桑折氏が田中城の城主でありのちに伊達氏などがかかわり攻防があって相馬氏が支配することになった。
桑折氏と菊池氏は南朝の城の霊山が炎上したとき逃れてきた武将でありその子孫なのである
明治維新になりなぜまた南朝問題が生じたのか?
それは天皇の正統性が問題がぶりかえしたからである
江戸時代は天皇は脇役であり関心がなかった、でも天皇親政のようなものが復活してきたのが明治維新だったのである
それで天皇の御旗をかがけたのはほとんど南朝出身者の武将達だった
だから南朝の思想を受け継いでいたのである
なぜ明治になって異常なほど天皇をもちあげて国家神道としたのか?
その原因がここにあったのだ
後醍醐天皇は、既成貴族層の解体と再組織を狙っていて、旧来の「天皇対貴族」という関係を打破して、「天皇絶対」のための官僚組織を作り出すことを最大の目標としたのでした。
「天皇絶対」のための官僚組織を作り出すことを最大の目標としたのでした。
これが原因だったのである、第一この思想は民主主義とかヨ−ロッパの文明を取り入れたとき合わないものだった
ところが日本はこうして先祖帰りして天皇絶対制になってしまったのである
またそうしなければ日本を統一できないということがあった
ただ天皇が異常にもちあげられたことがやはり後の大東亜戦争の原因にもなった
明らかに明治維新から大東亜戦争は連続していたのである
その源に明治維新が南朝の復興であり継続だったということがあった
その主役となった西郷隆盛でも南朝の子孫だったということである
野馬追いの旗はわかりにくいにしろここは歴史的に明確なのである、ともかく歴史はどこかで蘇ってくる
江戸時代300百年は天皇は関係なかったからだ
それが明治になって天皇が異常にもちあげられた、また明治維新を成した人たちが天皇をもちあげて明治に新しい国家を作り上げたとなる、それか一面災いももたらしたのである
その証拠に靖国神社には官軍についたものした祀られていないのだ
西郷は最後は西南戦争で賊軍になり祀られていないのである
そうした恨みは会津でももっていたのである、賊軍とされたからである
明治維新となると今見直されている、錯綜しているが萬世一系などないというのは確かだろう、それは天皇を持ち上げた人たち作りあげた虚構である、だから明治天皇は作られた天皇だったというのもわかる
萬世一系とか天皇像を作り上げたのは天皇自身ではない、その取り巻きの権力を得る人たちだったのである
そもそもヨ−ロッパにならったら天皇というのはありえないからである
それは象徴的なものではない、実権ももっていたからである
天皇がそうした権力ではなく、文化的存在として許されるものだったと思う
『歌書よりも 軍書に悲し 吉野山』 {東花坊}
天皇は時代がたつにつれ歌書の方に傾いた、江戸時代にはただ歌の短冊を売ってかろうじて暮らしていた、まさに歌詠みにすぎなかったのである、それが明治になって異常にもちあげられた、天皇は象徴として必要でもそれが実権をもたされて取り巻きに利用されたのである
ただ日本は統一するには天皇が二に分かれると歴史では日本は二分して熾烈な争いとなった、だから南北朝の争いは日本のすみずみまでが争いになり深い傷痕を残したのである
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