2020年03月08日

学校とか駅とか施設とかの建物は立派 (でも肝心の人が住んでいない)


学校とか駅とか施設とかの建物は立派

(でも肝心の人が住んでいない)

復興という時何か不思議なのは公共的建物は立派なのである
飯館村でも学校とか施設とか立派なのである
双葉町でも3月14日に常磐線が開通する、その駅が立派なのである
おそらく新地駅のように立派になっている、都会並みの駅である

でも飯館村でもそこに肝心の人が住んでいない、子供でも他の避難した地域から通っている、小高でもそうである
双葉町でも駅は立派でも人が住んでいないのである、その周りには人が住んでいない
これから帰ってきて住むというが復興団地に入っていた60代の人はめんどうだしここで落ち着きたいとしている、老人だともう復興などめんどうだとなる

だから建物だけが立派にしてもそれで復興になるか?

そこに肝心の人が住んでいない

駅でも人の乗り降りがないと無人駅化する、建物が立派でも人の出入りがなければその用をたさないとなる
だから不思議なのは役所でも役所があって役人がいて住民がいるのではなく住民がいて住民によりそうことが必要だという時もそうである
奇妙なのは住民がいなくなれば役人も必要ない
役人は住民がいて役人でありえる、国でも国民がいてその上に政府がありうる
それはあまりにも人が住んでいないからそうなった
警察だって住民を守るためでありその住民がいなかったら役割がなくなる
でも避難区域では肝心の住民がいない、あまりにも少ないのである

こんな立派な建物が作りました、住んでくださいと言っても住まない
そこに復興の主役となる住民がいないのである
駅を立派にできた、でも住民がいない町に降りても意味がないとなる

老人施設でも介護士がいないからこの辺では青森に送られている
立派な施設があっても肝心のその施設を利用できない、活かせないのである
結局建物だけではない、広い土地もある、でもその土地も放射性物質に汚染されて利用されない、双葉とか大熊になるとその土地は放射性物質の廃棄場となるだけである
ただ補償金はもらっているからそこに住んだ人は別に故郷に帰ることもない
別な土地で家を建てた人も多いのである
南相馬市とかこの辺でも二つくらいの街が新しくできたからである
それだけの家が建ったのである

何か双葉駅とかでも立派になっても誰も住んでいない駅におりるのは奇妙だとなる
無人の街を歩いて帰るとなるのも変なのである
これから帰る人があるにしても浪江でも一割しか帰っていない
双葉になると避難解除はされていない、すでに十年を過ぎるのである
10年間誰も住まない街があり周りの田畑も放置されたのである

復興というとき町全体を元のようにまた新しい町として復興することである
でもその主役の住民がいないのである、それもこれからも帰ることはあてにならないのである
役所でも警察でも肝心の住民がいないとしたら守るものがないのである
建物は前より立派になってもそれで住民が帰るわけではない
まず人が住んで自治体が成り立つ、その肝心の主役の住民がいないのである
映画の猿の惑星では核戦争で滅びた後に猿が人間の代わりに住んでいた
ここでやはり核を使った現場事故の後に町が無人化して一時はイノシシとかが歩いていたまた猿でも人間を怖がらずに逃げなくなった
人間がいなくなったとき動物はかえって住みやすくなるし増えるのである

何かこの辺は依然として映画のような状態がつづいている
イオンを例にすると巨大資本でありそれは市町村の街をシャッター通りにしたと言われるそういう外からの巨大資本会社は利益をあげられないと撤退する
そこの住人ではないからである、利益は東京に住んでいる会社の人に吸い上げられる
それは中国人の観光でも中国人が経営する旅行会社が来て利益はもってゆくから日本人は利用されているだけだと嘆いている
外資が入ると日本人のためより外国人のために尽くすしもうけるとなる
北海道のニセコとかは外国人の富裕層の街であり日本人はそこでもうけているともならない、外資が入るとそうなり安いのである

だから人間はどこであれまず住むことが第一の要件としてある
ただ住むことは自ずと責任と義務が生じている
これを住んでいる人は理解しなかった、自分自身さえ別に住むことだけにそんな責任とか義務があると思わなかった
でも原発事故で住めなくなったときそういうことがあるのかと自覚したのである

第一に住むことがその土地に対して責任と義務を強いられる

つまりそこに住んでいる人たちは自ずと今回の原発事故でも住めなくなったようにそうさせた責任の一端は住民にあったからだ
金に目がくらんで原発を積極的に誘致したからである
でもそこに住んでいる人に一番被害があった

故郷に住めなくなることが最大の被害だった!

責任を感じないにしても必ず誰かが責任をとらされるのである
責任はカルマでもあり逃れることができないのである
最も責任があったのはそこに住んでいた人たちなのである
ただそういうふうに自覚していた人はいない、金になればいいじゃないかという軽い気持ちだったのである
とにかくその場所に住むということはすでに責任と義務が生じていたのである

そして住むことは否応なく責任をとらされるのである
住んでいる場所が放射性物質とか公害とかで汚染されればそこに住んでいる人たちが一番被害を受けるからである、責任をとらされるからである
だから住まない人には責任とかも感じない、それが東電でも幹部は東京に住んでいるから安全だとして安全に真剣にならない、東京に住んでいれば安全だとなるからだ
事故になっても東京まで被害にならないだろうとみるからだ
だからこそ原発は東京に作るべきだったとなる
それは東京の人たちの責任となるからだ






posted by 老鶯 at 20:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連
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