2020年04月22日

戦後の焼野原からの日本の復興 (私の家族の歴史)


戦後の焼野原からの日本の復興

(私の家族の歴史)
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戦後の焼け野原は何も失くなったが故に、そこに新たな構築物を建てたり再建することが容易であったのに対し、今度の焼け野原は、再建・再構築するために、一度存在している構造物を物理的に破壊する(完全な意味での焼け野原にする)必要性すら生じるという皮肉である。それにすら人員も資金も必要になる。ほとんど何の生産性もないことに対しての労力と対価を要するのだ。つまり、70年以上前の焼け野原の方が遥かに対応しやすい現実がある。

質(たち)の悪い新たな焼け野原

                                   
戦後十年の生活をふりかえると不思議になる、それは小学校6年くらいまでの生活だった
その時のことをふりかえると不思議である
家族でも父親は明治生まれであり母親は大正生まれであり姉も大正生まれである
ここは変なのだけど特殊な家族としてそうなった
そこが外部から見て自分の家族のことは理解しえないものとなっている
父親は酒屋に丁稚奉公して双葉町の新山の酒屋で働き暖簾分けしてここに定着した
母は原町出身であり原町紡績(はらぼう)で糸取り紡績工場で働いていた
昔の働き口はこの紡績工場であり絹織物がアメリカに輸出していたのでそれが日本の産業だった、戦後電機製品が輸出産業となったのと同じである
どこにでも兜形の屋根の家がありそこで養蚕をしていたからだ
日本の経済力は工業ではなくこの養蚕が国を支えていたのである
それから母は東京に行き女中になった、その頃女性の勤め口は紡績工場か女中くらいだったのである
そして姉は赤紙一枚が来てシンガポールの向かいのジョホールバルでマレーシアの赤十字病院で四年間従軍看護婦として辛酸をなめた

父親が明治生まれでもそこから明治時代をイメージすることがむずかしい
大正時代になると多少二人がその時代を生きたから知るとなるが大正時代は短い
それも子供の時のことである、ただ関東大震災を母は記憶していた
また今の相馬農業高校がある近くに実家があり空襲にあい、防空壕に逃げた話を聞いている、相馬農業学校は空襲で焼けたことがあった
原町は雲雀が原に飛行場があり空襲がかなりあり被害があった

戦後は焼野原が出発した、その光景は凄まじいものだったろう
そこに戦争からの引揚者が大量に帰ってきた、その人たちわずかの土地を求めて開墾に入った、例えば子供の時知っている人は鹿島区の小池に開墾に入った
それは街から近いのである、そんなところに開墾する土地があったのかとなる
なぜなら平坦な土地であり田が多いからである
飯館村の木戸木のようなもう八方塞がりのような場所ならわかる
とういことはいかに戦争からの引揚者がそんなた所まで入っていたかということである
それと不思議なのは街の近くでもまだ開墾する土地があったということである
これは意外である、飯館村のような場所ならわかるがそんなに街に近い所ではありえないからである 
そこに子供の時卵買いに行かされた、自転車に糠をつめて卵を入れる
でも道が舗装されていないから卵が必ず割れるのである
真野川の橋は木の橋でありゆれるから怖い、木の橋であり土の橋だった

何か戦後は食べるために仕事もなく農業する人が多かった、第一戦後でも6割は農家だったとかなる、農業中心の社会だったのである
その時、トイレは外の便所でありその糞尿は近くの人が肥料として運んでいた
それは江戸時代と同じである、燃料は炭だった、だから別に山の中でなくても街から近い所でも炭焼きしていたのである、トイレの紙は新聞紙だった
水は井戸水でありこれは無料だったのである
この生活は江戸時代の続きだったのである、戦前にしろ戦後十年は江戸時代の続きだったのである
だから戦後一〇年でもバナナを売っていない、父親が病気になったとき仙台市から姉が買って食べさせた
そして父親はサシミ食べれるようになったけど食べたくないと言って死んだ
サシミは相当に贅沢品であった、おそらく晴れの日とか特別な日しか一年に一回とかしか食べていなかったのかもしれない

ともかくそういう生活があったことが不思議になる
だから飯館村の木戸木は戦後開墾して入った部落である
そこの交通の便が本当に悪い、草野の方に行くには七曲の道を延々と行くほかないし、大倉に行くにもそうである、そこから出ること自体簡単にできない土地である
ではそこで何を食べてどうして生活していたのか今になるとイメージできない
確かにわずかに田んぼがあり畑があったとしても土地が狭すぎるのである
だから林業とかありそういう山の暮らしがあって生活できたとなるがそれがイメージできない、山菜ばかり食べて生活できるとイメージでないのである
新しい直線の道ができたのは10年以上前のことである
そこに小川が流れていてもそこで魚など見たことない、何か食べるものがとれる環境ではない、そこは森に覆われて人も一日誰も通らない暗い神秘的な場所だった
だから飯館村ではあそこが一番不思議なの場所なのである

戦後十年から急激に高度成長時代になり変化した、その変化のスピードが早かったのである
でも中学校のクラスで三分の一くらいが中卒であり東京に集団就職した
それは蒸気機関車で行ったのである
今になるとそれが思い出せない、イメージできないのである
その時それが当たり前だら特別なものもとして見ていなかったのだろう
でも何か記憶に残っていてもいいはずなのである
だから何が記憶に残るのか?それも半世紀とかすぎると過去はあいまいなものとなってしまう

いづれにしろ戦後焼野原になったとき既得権者も都会の金持ちでも食べるものがないから農家に着物をもって食料と交換したりした
物がないのだから物で交換するほかない、そして母は前の夫が事故で工場の事故で死んだ時、一生暮らしていける金をもらったと言っていた
でも戦後その金が紙幣が本当に紙切れになったのである
ただ実家の近くに買ったわずかの土地だけが財産として残ったのである
預金封鎖があり紙幣は紙切れになった
つまり金はまた紙切れになる恐怖に現代もなっている

こうしてふりかえると焼野原から復興した時代があった
その時また団塊の世代のように膨大な労働力が供給された、それを吸収することが電機産業などであり高度成長時代になった
そのスピードが早かった、なぜなら高校生の時東京オリンピックがあったということは
約10年くらいで急速に日本は発展した、それは中国と同じだったのである
私が十数年前に行ったときは中国は日本と似ていた、でもみるみるうちに発展して新幹線とか走りIT先進国にもなっていた、その変化に驚くのとにている

それから日本はバブルにり下り坂の経済になった
そして膨大な空家とか耕作放棄地とか何かこれまでの成長の基となったものが負の遺産としてのしかかっている
これが戦後だったら引揚者のようにてっていたらこれだけの土地があるのだからその土地を利用していたからである
でも農業は衰退して後継者もいない、平均年齢が67才とか高齢化しているのである
ただ実際は専業農家が農産物の8割を生産している
零細農家は実際はつぶれても実は食料は供給されるのである

こうして時代をふりかえるときこれから日本はどうなるのだろうか?

プラスの遺産が空家とか耕作放棄地とか負の遺産と化している
でも何かコロナウィルスでもそうだが大きな変革が戦後70年でまた起きる
何か無駄なものが多かった、そうした無駄なものが淘汰されて本当に必要なものだけが生き残る時代になる
インパウンドもバブルだったのである、何か淘汰されるものはバブルだった
中小企業でも倒産するというときすでに社会にとって淘汰されるべきものだったともなるそれが一気にコロナウィルスで淘汰され整理されるかもしれなん

つまり新しい時代には不必要なものが一挙に清算されてゆく
そこに金をつぎ込んでも投資しても無駄だとなる
ただ焼野原の方が新しくやり安いというのは言える
いろいろいな過去のものがあるとそれに縛られる、空家でもいつまでもあるよりかえって更地にして別に利用した方がいいとなる
つまり何もないということは新しいものが作り安いということである
だから原発事故で避難区域になった所では膨大な土地が放置されたのだから新しく入って来た若い人たちが自由に利用できるともなる
そこに未来のビジョンを描けるともなる、また人のしがらみもないから人間関係でもそうである
若い人たちに自由に使ってくださいともなにるからだ

ただ老人は庭に木を植えようとしてもそれが十年育つにかかるとか花咲くとかなると植えたくない、それより夏蝋梅が成長していたのに切られたことが痛かった
なぜなら成長するまで時間がかかる、老人は待ていないのである
投資でも十年先とか見れない、その時死んでいるかもしれないからだ
だから老人にとって今あるものが失うことの方が痛手なのである
今あるものこれまで育ててはぐくんだもの家族でも家でも田畑でも人間関係でもそうである
だから親であれ妻であれ失うことが痛手となる、今あるものが貴重でありそれが消失することが喪失感となる、老人はいろいろなものを失う、だからこそ今あるものこれまで築いたものが老人にとって貴重なものとなる

つまり木でも花でも成長させるのではない、成長したものを見ることが向いている
これから種をまいて植えて育ててその実りを見るということに向いていないのである
第一老人は人生の成果を実りを示すことである
それが作品であれ何であれそうである、家を建てたというときそれはその人の実りであるだから常に姉はこの家を建てたことを自慢していたのである
必ず何か成し遂げたこと作ったことを自慢するようになる
これから何かを成し遂げることではないのである
この何か成し遂げるというときかえって戦後の焼野原の方がやり安かったとはいえる
今のようにいろいろなものが作られたものが重なり身動きがとれないような状態だとかえって新しいものは作りにくいともなる
だからコロナウィルスでも何かそうした淘汰作用があり新しい時代が生まれるのかともなる

ともかく家族で死ぬとやがて歴史になる、歴史としてふりかえることになる
家族は身近だからやはり血肉のように歴史をふりかえる、ただそれが祖父母まででありその上となると見たこともないとかなり実感がないのである
私には祖父母がいなかった、母方にいたが祖母とは思えなかった
それは一緒に育たなかったからだろう、何かやはり一緒に生活をともにしないと何でも記憶に残らない、それは肉親でもそうである
人間は去る者は日々に疎しであり何か記憶が薄れて抽象的になる
だから肉親でもともに一緒に生活しないものは記憶が消えてゆく

私の場合60歳までもそれ以上に一緒に生活したから記憶として残っているのである
だからもし本当の両親でも一緒に生活しなかったら記憶にないし両親とも思えないだろう動物でも子供のとき親がいないとき誰でもついてゆく、そのついてゆき育てるものが親となる
父の違う兄とは5年間でも実際に一緒にいたので兄だったのかと記憶している
もしそれもなかったら記憶にないから兄ともならなかったのである
つまり共有する時間があり場があってこそ家族でありそれが記憶となる
その女性は実家で五年間を兄と暮らしていた、でも記憶がないという、その女性は異常に薄情な女性となっていたのだ
少なくとも5年間一緒にいれば忘れないと思うからだ
それだけ人間は変わってしまうということでもある

ともかく人間の家族は複雑なのである、子供の時でも育て方が違う
ある人は8人兄弟で粗末に扱われたことを語っている
風邪などひくと親にしかられるから隠していたとか8人もいればそうなる
私は一人だから過剰に大事にされた、かえって病気でもないのに病気を装ったりした
それは病気になると余計に大事にしてくれるからである
つまりこれだけ育った環境が人間は違うとういことである
それがのちのち影響しているのだ、自分の場合はあまりにも甘やかされ過ぎたということである、一方はあまりにも粗末にされすぎたということである
そういう人は親に対してあまり良く思わないということがわかる
家族でもその差が大きいと思った



posted by 老鶯 at 09:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 明治維新-明治以降
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