八重桜(桜散る後にほのぼのと咲く)
赤々と内よりあたたか八重桜
八重桜母のごとしかほのぼのと
八重桜咲きつづく道走り行く
八重桜に菜の花映えて田舎かな
山桜あらかた散りぬなお風の荒しも今日もやまざりしかも
桜は散った、その後に必ず八重桜が咲く、それが季節の変化になる
桜と八重桜は相当違っている、桜は咲いたらすでに散ることを予感する
でも八重桜は散るという花ではない、何か桜があわただしく散った後に落ち着いて咲く
八重桜はなにか内からあたたかさを感じる
また母と言うだけではなく女性的な母性的な何かを感じる
だから桜と八重桜はまるで違ったものである
田舎だと菜の花に似合う花だとなる
だから八重桜も好きなのである、とにかくこれからはいろいろな花の咲く季節である
花でも自然に融合するには自然を見るにはじかに人間に接することが必要になる
自転車だと例えば山を見るにしても徐々に山に近づき大きく見えて来るとか見え方が違うのである、車だとなにか景色でも見え方が違う、だから自然にふれるには歩くか自転車がいいとなる
八重桜をが咲きつづいているところを車で走るのと歩くのと自転車で行くのでは感じ方が違うのである
それで車とういのは人間から本来の感性を奪ったともなる
それは電車とかでも言えるのである、それに気づいたのは常磐線でどれだけ仙台に通ったか?でも山元町の海岸線を自転車で行って蔵王を見たとき全然違っていた
電車で見るのとは全然違っていた、徐々に大きく迫るように見えたからである
電車の中だらぼつんとしか見えなかったのである
人間は車が走っていることに感じない、ただ物体が過ぎ去るという感じになる
ところが不思議に一人の少年が走っていた、赤いつつじが咲いて少年が走っている
芽吹きの季節でもあり何か少年が未来に向かって走っているという感じになる
車だったら第一その人が見えないからそういうことを感じないのである
車社会はだから便利にしても人間的なものを奪ったのである
それで変なのだけど自転車を乗っている人とは誰でも気軽に話し合う、でも車に乗る人とはほとんど話しないのである、車に乗っている人は車の中に閉ざされている
自転車だと姿が見えるから話し合いやすいのである
ただ自分自身は車をもっていないのだから車がどういうものかわからないのである
でも正直私は車が嫌いなのである、だからコロナウィルスで車が道路から極端に減少した時、交通事故もなくなり空気もきれいになったということがあり何か車の無い社会を見直すことにもなった
結局なにかと自分は現代社会に適応できないかった、学校からして適応できなかった
もちろん会社とか社会にも適応できなかった
それを一番象徴していたのは車に乗らないということだったのである
まず自分は車を運転できない、常によそ見しているから自然を見ているから事故になるからだ
ただこういう生活ができたのも別に生活に追われることがなかったからだ
だから常に自分は親に感謝しているのである
今の社会に適応できなくても引きこもりでも自由に旅しても何もとがめられることがなかったからだ、それも60までそうだったのである
何か普通の家族ではなかったにしろ自分にとっていい家族であり楽できたのである
それで人間は育つ家族の影響が大きいと思った
人間は育つ家族の環境でその人生が左右されることが多いのである
山桜もあらかたは散った、でも風が今日も荒いのである、何か今になって風が毎日吹いている、東風が吹いている、普通の桜が咲いてから風が吹いてまだ風が吹いて山桜に吹きつけている
それで落ち着かないともなる、それはコロナウィルス騒ぎが収まらないということで余計にそれを感じてしまうのである
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