2020年05月05日

人生の経験が宝になる (老後は金だけではない過去の経験が宝となる)


人生の経験が宝になる

(老後は金だけではない過去の経験が宝となる)

人生百年時代になるとどうしても老後をどう過ごすかが問題になる
金も問題だがないのも困るが何か財産というときみんな金だと思っている
つまり金の多寡でその人をみる

でもその人の人生で経験したことが実は財産になっている
その経験が多様であり人によって違っている
だから老人は経験を語る、そこに何かしらの教訓が必ず含まれている
それですでに30近くでyoutubeでFラン大学に6年間いて底辺に落ちた人が語る
つまりそれも経験なのである
自分も何か30歳までこの人と似ていたから共感する
つまりいかに大学でも勉強しないかということで後悔している
ただどんな優秀な人でも人生を後悔しない人はいない
結局人間は時間を必ず無駄にしている、時間の貴重さがわからないのである
そして老人になるともう経験する時間が無くなっているのだ
だから老人は経験したことが宝になる

だから話で面白いのと若い人より老人だとなる、どんな経験したのかと注目する
特に外国で生活していた同世代の人には驚く、アメリカとかで良く生活できた、仕事できたと経験しない人はみる、それも15年もである
他にも外国で生活している人が日本を語る時、説得力がある
日本でしか生活していないものは視野が狭くなるからだ

みんな宝は金だと思っている、でも人生で残るものは何なのか?
それはその人が経験してきたことでありそれが宝なのである
自分の場合は旅したことが財産となっていた
そんなの遊びじゃないか何かそれで伝えるものがあるのか?
それはある、私が常に地理を語っているのは日本全国だと隈なく旅している
それも鉄道で最初はしていたが後で40頃から自転車で旅していた
それでより地理を体で知るということができた
だから今になるとあそこを旅したなとかその場面を思い出すのである

もちろん読書も有効に時間を費やすものとしてある、でも百聞は一見にしかずになる
特に外国だとそうなる、これはいくら本読んでも一回旅した人にはかなわないし
また外国に住んで生活した人の差が大きすぎるのである
外国で生活した人は肌で外国を知る、本をいくら読んでも何か外国だけはわからないからだ、地理からして全く理解できないのである
それで50過ぎてバックパッカーで外国を旅行したことが外国を知ることになり良かったとなる、その後は介護とかで全く旅行できなくなったからである

あらゆるものが経験があって理解できる、例えば教育にしても教える子供前にしてこそ
教育をどうするか、どうしたら効果的に教えられるか理解するようになる
それも実際に子供を前にして教えてみないとわからないから教育実習というのが大事になる
また医者でも研修生がいて実際に医療にたずさわらる経験をしないかぎりいくら大学で勉強していてもわからないとなる、つまりそれも経験なのである

手術がうまい人は手術をより多く経験した人である

手術は経験しない限り上達しない、だからどれくらいの手術の経験があるからでその医者の力量が図られる
それで医者は手術がしたいというとき手術を経験しないと上達しないからである
手術の回数で手術の力量が計られるのである

つまり知識をいくら貯えてもそうした経験がないといい教師にはなれないのである
そこに失敗とかもあるがその積み重ねで教えるコツがわかる
自分の場合はそれできなかった、経験を積むことができなかったから後悔しているとなる

ただ正直人間の経験することがわずかである、だからどうしても複雑多様な社会の理解に欠ける、職業でも理解できないのはそもそも経験できないからである
私にちょっとその仕事をやらせてもらいますかとはならない、仕事は危険でもあるし絶対にそんなふうにしてやることができないのである
それで駅でボランティアした経験でも駅がどういうものか鉄道がどういうものか多少知ったのである、そうしたわずかのことでも経験がいかに人間にとって大事かわかる
ただ残念なことはその経験する時間があまりにも短すぎるし極わずかのことしか経験できないことである
正直自分には会社勤めもしないから何か社会性が欠けていた、結婚もしないとなれば何か人間として根本的な経験を欠けたものとなっていた
つまり女性でも子育てしない人は母親のことを理解できないともなるからだ

人間を作るのは経験である、宗教とか信仰も経験がないとわからない、聖書を隅から隅まで読んでも経験がないと理解できない
別に聖書を読まなくても理解できるし信仰を知ることができる
第一聖書では何か起きたこと事実として起きたことを一番重視している
単なる哲学でもない、思想でもない、現実に起きたことを書き記したのである
そこに奇跡もあるがそれも事実だったから書き記したのである
単なる知識ではない、現実に起きた事実でありそれは奇跡でも事実だから記したのであるすべて事実として起きたことを記したのである
つまり経験されたことであり想像された世界ではない、そこに重みがある

本質的に人間は経験しない限り学べない、何か本当に辛い経験をしないかぎり「悲しむ者は幸いなり」とか理解することは不可能である
キリストの言葉でも現実に苦しむことがないかぎり理解できない
ただ本をだけを読んでも理解できないのである
だから聖書を全く読まなくても経験したことで理解できるのである
でも隅から隅まで読んでも理解できないのである 
それは教会に行ってもそうである、経験しないことをいくら説教されても理解できないからである

経験という時例えば宇宙旅行した人としない人の差がもう信じられないほど大きい
宇宙から地球を見る経験した人はどうなるのか?
それをしている人としない人の差がどれだけ大きいかそのことで経験がいかに人間を作るかをしる
つまり宇宙から地球を見たら世界観が変わってしまうからだ
それは外国旅行でもわかる、ヒマラヤとか一回でも見た人は魅せられてしまうだろう
私は一回しか見ていないからそれも後悔している
仕事でもそうだしあらゆることが経験することなのである
本をいくら読んでも外国のことがわからない、それがいかに経験が大事かを物語っている
そして老人はその経験をふりかえる、経験が宝になる、例えばもしヒマラヤ登山を経験した人としない人の世界観も違ってくる
つまりなぜエベレス登山で死んでいる人が多いのか、それだけ魅せられてしまったということである
3000メートルから8000メートルの山を見たとき本当に日本では経験しえない驚きだった
ただその時曇っていたのではっきり見えなかったから残念だったのである

いづれにしろ人間を作るのは経験であり老人はその経験を語るのである
その語ることが面白いということがあればその老人は価値ある経験をしたとなる
だから戦争を経験した人は死ぬ直前まで戦争のことを語っていた
それだけあまりにもありえない強烈な経験となって忘れることができなかったのである
戦争などはいくら聞いても実際に経験しないかぎり理解できないものだからである
戦争を経験した人は生涯忘れられないのである  

とにかく歴史でもそうだが今回のコロナウィルスでも時代に起きた経験でありやはりこの後そのことを語っても経験しない人はなかなか理解できなくなる
それで私は一身上でも家族の認知症とか自分の病気とか他者から責められたとか様々な経験をして理解した
津浪や原発事故でもそうである、これも避難民になったとかなれば経験である
それを批判したりしたがその人たちにとって経験したことはまた違っている
ただ津波だけは恐怖だった、村ごとすべて消失するなどイメージすらできなかったからだこういう経験はなかなかできない、でも何百年に一回とかこんな恐ろしいことが世の中には起きるのだ、その起きたことが歴史である
ウィルスでも日本でもコレラとかで大きな被害があったからかつて経験されたことなのである、ただ忘れていたというだけである
歴史はそもそもそうして人間が経験したことを書き記したものである
その物語がhi-storyになった、つまり人間個人にしても一生はhistoryなのである
つまり経験されたことでありそれを語ったものなのである


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経営でも投資でも経験しないとわからない、いくら本を読んでも話聞いても実際にしてみなければわからない
つまり自ら経験しないかぎり理解することは不可能である
あらゆるものが経験なのである、経験しない限り何か上達する身につくことはないのである





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