2020年06月14日

神の園の鷺(詩) (人間はなぜ自然と調和しないのかー原発事故以後鷺は消えた)


神の園の鷺(詩)

(人間はなぜ自然と調和しないのかー原発事故以後鷺は消えた)

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神の園の鷺

いづこより来しや
鷺の歩みのひそかなり
その細き脚の巧妙なる歩み
辺りを乱さず静々と
田の面を歩み音もなき
かくて餌は確実にとらえぬ
その長き嘴にて
街道のここに古りにき
古き石橋一つ渡り
松並木に夕影さして城跡へ  
そこの墓地に声なき声を聴く
鷺はいつしか空高く飛びて
いづこへとその姿は消えぬ
草叢深く花は咲きて
家々は林に隠りぬ
鷺はその優美な姿に
神の園を乱さず歩みぬ
誠に神の創りしものの
調和して妙なる美を現す
その鷺一つにしても
完璧なる造化の妙
神の園にそは置かれふさわし
人よ、つつしみ深くあれ
その田園に勤めいそしめ
そしてその暮らしを隠せ
さらばそこは神の園となりぬべし

白鷺の脚

白鷺の川の岸辺に一羽
悠然として優美なる姿
何か加えるものありや
何もなしかも完璧な姿
その翼と脚と嘴と
過不足なく与えられ
神の御園生に生かしめられぬ
夏の日太陽に一段と白くまばゆく
その天然の衣は映えぬ
夕風そよぎそのしなやかなる脚
その脚に絶えず水が流れている
水にひたひたと浸されている
いづこかへまた軽やかに飛びたち
白鷺は風を光を身に感じている
常に明るい光と風の中にある
その他は何も知らない
何も得ようとはしていない
完璧に神の業の賜物
エジプトの神殿の守り神
静謐なる純白の衣をまとい
水辺に菖蒲は咲きてひそまり
神にかしづき自然に調和する
いかなる災いももたらされず
神の御園生に生かしめられぬ


                            
神の園の鳥

神の園に鳥の朝飛びきて
木の実をついばむ
そのわずかな実にて養われるや
神の技に生きるものの不思議なり
昨日も来て今日も来ぬ
その糧のここに消えることはなし
明日もまた糧ありと疑わず
無邪気に木の実を食べぬ
そしていづこかへと消える
庭には花には花が添えられて
夏の日ざしを浴びて映える
それぞれの個性の色に映える
庭の石はただ並び黙して日影に憩う
しかし人に絶え間なく煩いのあり
明日の事、十年後のことでも患う
日々患い十年後も煩う
その重荷の消えることなし
この鳥は今日木の実を食べて
明日木の実のなくなることを思わじ
そこは神の園なれば神に与えられる
そを疑わず神の園にあればなり


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白鷺に魅せられるのはなぜか?それは完全に自然と調和しているからである 
人間は原初状態だとトーテム信仰があり動物を祖先としていた
原初状態では人間は自然と一体化していた、それで人間は鳥とも一体化して人間の頭が鷺になったり鷲になったりする、つまりそれだけ自然と一体化していたからである
それは奇妙なことに今なら見えるがその当時は極自然なことだったのである

現代はどうかとなると人間は機械と一体化している、人間自体がロボットとなる
頭がコンピュターが組み込まれたものとなる、それも異常なのである
なぜ人間だけが神の創りしもので自然と調和しないのかが常に疑問になる
それは自然をみていればわかる、鳥でも何でも自然と調和して自然を乱したり壊したりしないのである

庭の鳥が木の実を食べにくる、あんな小さな湖のみに栄養があるのかとみる、でも楽しそうに木の実を食べている
明日を思うな、今日のみでたりるとなるのが自然であり鳥である
自然のものは貯えることをしないからである、だから良く心配しないで生きられると思う
人間は十年先でも20年先でも心配しているからである
常に不安にさいなまされているのだ、人間に十億あっても安心がないのである
現実にそういう金持ちでもその金を失うことを心配しているのである
お前もそうではとないかというと多分にそういうことがある
だから人間というのはなぜこうなっているのかと思う、神の園はこの世にある、だが人間世界にはないのである
それでいくら人間は努力しても理想の社会は作れないのである

人間だけが調和しない、文明化といってもそれは自然と調和しない、東京とかの大都会を見ればわかる、それは人工化した自然がない異様な光景ではないか?
それを誇ることができるのか、そこは地球ではない、異世界に入ったような気分になり
高層ビルを見上げて人間の小ささを思い知るだけになる
そこにいるのは人間なのだろうかとなる
そんな所が人間の住むところなのか、そういう疑問があっても現実には都会に住む人が大多数なのである

ただ都会でも5万くらいならいいのかもしれない、原町くらいの規模は自然とも両立できるとなる、第一ヨ−ロッパは都市国家である、でもギリシャのボリスでも一万くらいなのである、だからこそ直接民主主義だったのである
フィレンツにしても5万くらいであり原町くらいだったのである
それであれだけのルネサンスの芸術都市となったのである

人間はありきりのものに感動しない、日立木の薬師堂の町場橋を渡り陸前浜街道の松並木に行く所に霊感を受けてこの詩を作った
詩の霊感は場所から受ける、その場所場所に独自の雰囲気を作り出している
そこは何でもない風景だけど鷺なども見慣れたものだけど鷺一羽でも過不足なく自然に調和している、それに感動する
そういうことが人間にないのである
ただ松並木のかたわらはソーラーパネルになった、それは隠されていはいるけど自然が損なわれることはある
でもこの辺でぱ震災以後放射性物質の汚染で田畑を放棄したことが目立つ
そうなると手間がかからないのはソーラーパネルなのである、そこから地代を稼ぐのが楽だとなるからソーラーパネルが増えてくるのである
ただそれが風致を乱すものとなる

結局人間と自然が調和していたとき戦前の農業中心の社会であり戦後のまだ開発されない工業化が余りされていない時だった、時代がたつにつれて世界でどこでも自然は破壊されてきたのである、開発が進めば進むほど自然が破壊されるのである
自然が荒廃したという時、田は人口のものだが実際は自然ととけこんだものであり紫前の一部になっていた、生態系を構成しているものになっていた
だからこそ田があってそこに餌があり鷺がいたのである、鷺は夏の季語である
でも原発事故以後に30キロ圏内は田畑が一時なくなった
そして草ぼうぼうになり荒廃した、今でも避難区域だった所は小高でも浪江でも草ぼうぼうなのである

そうなったとき気づいたのはそこに蛙とか鷺がいなくなった
鷺は本当ちいなくなった、なぜなら田んぼの蛙とか水生の虫とかを食べていたからである餌がなくなりいなくなったのである、ただ川とか小川には一部いたが草ぼうぼうの原野になった時、鷺はいなくなったのである
そして田んぼが回復した時、蛙が鳴いた、蛙の声がうるさいという人もいるけど蛙が鳴いてこそ田舎なのである、つまり田んぼは生態系の一環の中にあったのだ
それは意識しなかったけど田んぼが草ぼうぼうの田んぼと化した時、そのことを自覚したのである
田んぼは確かに米をとるためであり食料を得るためである、そのことがなくなれば誰も田んぼを作らなくなる、だからこそ震災以後は田んぼがソーラーパネルになったのである
小規模の田んぼは跡を継ぐものがない、ただ手間かかるばかりであうり金にならないから放置した、でも金にするにはソーラーパネルにする方がいいとなったのである
その時やはり生態系を破壊したのである、なぜなら田んぼは生態系を形成するものだったからである
田んぼの効用は確かに米をとれるということにもあったが生態系を維持するものとしてもあった、だからこそ田んぼが草ぼうぼうになったとき鷺が餌がないのでいなくなったのである

いづれにしろ人間は自然から離れる時どうなるのか、東京のような所では何とアイディンティティ化するのか?
エジプト文明では動物でも自然とアイディンティティ化した文明なのである
それが遅れたとはならない、違った文明というだけなのである
人間は必ずしも進歩していない、ただ変化しただけなのである
エジプト文明が遅れた文明とはならないのである   



白鷺は、その一羽、
睡蓮の花を食み、
水を食み、
かうかうとありくなり。

白鷺は貴くて、
身のほそり煙るなり、
冠毛(かむりげ)の払子(ほっす)曳く白、
へうとして、空にあるなり。

白鷺はまじろがず、
日をあさり、おのれ啼くなり、
幽かなり、脚のひとつに
蓮の実を超えて立つなり。

北原白秋

白鷺は貴くて、
身のほそり煙るなり

白鷺はまじろがず、
日をあさり、おのれ啼くなり、
幽かなり、脚のひとつに
蓮の実を超えて立つなり。

この辺は理解できる、身のほそり・・・白鷺はまじろがず・・この表現はいい
幽かなり脚の一つにとかもいい、へうとして空にあるなりというのもいいが地上に舞い降りる時細き脚に乱さず歩むとかなる

やはり詩は言葉の表現だからその言葉をどう駆使するかで感じが相当に違ってくる
だから日本語で文語で現すとまた違ったものとなる
詩はだから外国の詩は訳せないのである
それだけ言葉の芸術だからそうなる、絵とか音楽だと違っている、それは世界共通のものとして認識できる、詩は言葉の障害で理解できないのである

ただ何か遅くなりすぎたのが詩でも深く理解できるようになった、やはり芸術とか詩とかは簡単に理解できない、鑑賞できないのである
芸術そのものが簡単に鑑賞できない、鑑賞すること自体が相当に理解がないとできない
鑑賞能力あるとしたらその人は芸術家でなくても芸術家だとまでなる
芸術というのはそれだけ批評しにくいのである
何か私はもう死もまじかになっていろいろ理解できるようになったのである
詩でも深く鑑賞できるから批評もできるとなる
だから詩の鑑賞したものをプログにのせる
詩集の部も作ったがそれは詩だけをまとめるものとして出す
それと電子本でこれまで作った詩集をだす計画はあるがこれもまためんどうなのである



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