南朝を受け継いだ明治維新その古代からの歴史
(菊の紋の旗が江戸城入場に出ていた―野馬追にも菊の紋の旗が出る)
官軍の江戸城入場
これは船をつないだ船橋である
これだけの舟をを用意した、砂浜にも船を並べたのか?
菊の紋の幕である
NHKの桜田門外の変のドラマの江戸城入場
この赤と白の旗印と日本の線の旗印も野馬追いに出る
その由来は何なのか、天皇と関係しているのか?
野馬追に出る菊の紋の旗
ここになぜ日の丸の旗があるのか?
その由来がまたわからない
吉田松陰が再興すべしとしている南朝は、歴代にわたって長州が匿ってきた大室天皇家であった。それに対して、藤田東湖が再興すべしとした南朝は、歴代にわたって水戸藩が匿ってきた熊沢天皇家であった。それぞれが、みずからが握る「玉」を担いで南朝革命を成立させようとしていたことになる。
吉田松陰は1850年に長崎に遊学したが、読んでいた本のリストには、さらに過激な「南朝正統論」である三宅観瀾の『中興鑑言』が入っていた。
吉田松陰や藤田東湖までが「南朝正統論」に傾いていたとすると、薩摩・長州の藩士がめざした「尊王運動」とは、すなわち徳川幕府を倒して、南朝天皇家を復興させる運動だったことになる。ここで登場するのが、「孝明天皇暗殺」説と「明治天皇替え玉」説である
「明治天皇」は暗殺されていた!!
1) 孝明天皇は、徳川14代将軍・家茂(いえもち)を信任していた。つまり孝明天皇は、徳川将軍家との協調を本位に考える「公武合体・佐幕派」であった。
2) 北朝系統の孝明天皇の住む御所並びに京都市中の治安維持の総責任者・京都守護職に、会津藩主・松平容保(かたもり)が当たった。そして、この容保公も孝明天皇の信任を得ていた。つまり、維新後、「逆賊」とされてしまった徳川将軍家も会津松平家も、孝明天皇にとっては「忠臣」であった
明治維新は南朝の復活であり南朝系統の天皇を祭り上げて支配することだった
長州が南朝だということがまさにそうである、当然南朝系統を祭り上げて天皇もその替え薩摩長州によって北朝を祭る孝明天皇を守る会津は仇敵とされ賊軍とされて討伐された
それは天皇の正統性と関係なく薩摩長州の特に長州により南朝系統の天皇が作られて祭りあげられたとなる、天皇は玉といわれて結局天皇自体に力があるのではなく背後の権力を持つものにただ祭り上げられる存在だったとなる
だから天皇の神聖性とは何なのかただ権力を持つものによって玉として祭り上げられる存在だけなのかとなる
そして靖国神社とは明治維新でも賊軍となったもの、西郷隆盛の墓もない、祀られていない、西南戦争で賊軍となったからである
だから靖国神社の矛盾は日本が太平洋戦争の戦没者を慰霊する祀るとしてももともと国民としての慰霊の場所にふさわしくないのである
国民国家になったときすでに南朝とか北朝とかは関係ないものとなったからである
事実西南戦争の戦いは国民軍と化した政府軍とその政府軍に反逆する者たちの戦いだったからである、その国民軍には会津の武士も参加していたのである
そもそも国民という観念は日本になかった、それが明治維新に武士の集団である西郷隆盛の西軍と国民軍が戦った、ということは実は江戸幕府を継続しようとした勢力が西郷隆盛だったともなる、西郷隆盛は武士を残して江戸幕府の継続して侍が国を治めることを目指していたとなる、そこに国民という概念もなにもないのである
だから今度は日本では天皇の臣下として赤子としての国民となったのである
そうした日本の歴史の矛盾があり太平洋戦争で日本国民の総力戦で敗北した
いづれにしろそこで天皇という日本の支配体系が崩壊したのだが依然として天皇は国民の象徴として残されたのである、なぜなら天皇は戦争に負けて戦犯として処刑されるところだったからである
玉だったとなる、天皇でもすりかえられるのである
萬世一系でもないとなる、それを説いた本がでている
ただ自分は詳しくない、でも南北朝の争いが全国にどれだけ影響があり全国隅々までその争いの傷痕を残した、小さな村村でもそうした物語が残されていることでもわかる
日本では天皇が二人になることは国が二つに分かれることなのである
そして霊山は南朝でありその末裔が相馬地域に多い、特に南相馬市の鹿島区は霊山が炎上したとき逃れた落武者の子孫が多い、その姓が只野氏なのである
その中心的役割を果たした人が近くの同級生だった
日吉神社のお浜下りのおつづら馬を担う主要な人物の子孫だったのである
つづらとは何か宝物というか品物を運ぶつづらのことである
この祭りは13年に一回としか行われない貴重な祭りである
宝財(ほうさい)踊りは霊山城が炎上して滅びたとき身を隠すために変装した姿が祭りになった
ただ歴史という時、結局二つの勢力が権力争いになり二分される、
二人の王の間に反目が生じ、大きな騒乱が起こるからだ―ウェルギリウスー農耕詩
これは蜂の間で起きたことであるが人間でも同じである
歴史とは日本国内でも必ず権力争いで二分される、日本でも古代でも天皇が兄弟が二つに分かれて争った、壬申の乱がそうである、この時も南北朝の争いと同じだったのである
天皇の起源はわからないにしてもおそらく国を一つにまとめるために祭り上げられた王であった、関ケ原の戦いも東西の勢力の争いだった、国は必ず二つの勢力に分かれて争うカルマがある
そのカルマは世界史でも同じである、現代史でも同じである
米ソ冷戦があり今度は米中戦争の危機になる、そしてどちらかの陣営につかざるをえない中立を維持できないのである、そこで日本でも二つの勢力に分裂させられるのである
後醍醐天皇は、既成貴族層の解体と再組織を狙っていて、旧来の「天皇対貴族」という関係を打破して、「天皇絶対」のための官僚組織を作り出すことを最大の目標としたのでした。
つまり古代の復古というか南北朝の争いの継続としてあり現実に明治維新では天皇絶対制官僚が実現したからである、それは民主主義国家とかとは違ったものである
なぜならそもそも国民という存在もていから概念もなかったからである
それはヨ−ロッパとかでも王と貴族がいても国民というのはいなかったからである
他から近代国家が現れたの20世紀とかでありそれまではなかったのである
つまりヨ−ロッパでも江戸時代のように貴族が侍であり国民はいなかったのである
そういう二分した権力争いの中で南北朝の戦いでも相馬藩地域でも小高で侍が歌を残している
そしてNHKの桜田門外の変のドラマで見たら江戸城入場がありそのときの旗印が菊の紋でありこれは天皇家の紋でありまた南朝の紋だとなる
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相馬光胤(そうま・みつたね) ?〜1336
相馬氏第6代当主・相馬重胤の二男。相馬親胤の弟
南北朝の戦いで小高城陥落に残された短歌二首
光りたねをはじめ一族九七人が侍939人、その他多数のものが討ち死にした。
親胤の子の松鶴丸は当時13歳は母と共に小高の西、釘野山の麓の農家の宅にかくれ山野に辛苦をなめたものの、良くその身を全うすることができた
中秋にあたり松鶴丸が一族譜代の墓に詣でて従者に和歌二首をたむけさせた
去年の今日別れし人の墓に来てみのりを問えば涙こぼるる
我一人残るこの世の憂きづまいおもうがままに後世は問われず
この歌は何か本当にここだけではない、世界で同じである、二つの勢力が争いそれで苦しむ、それはいたるところにある人間のカルマなのである
それを家族で自分自身が経験した、家族でも争いそしてみんな死んだ
残されたのは自分一人だった、だからこの歌に共感するのである
今年の野馬追いは強烈もなにもなく終わった、震災で一回中断したが今回も中止になった
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