2020年08月24日

自然に宿る御霊(魂)の謎  (万葉集に歌われる死者と交流する日本人の霊(魂) 


 自然に宿る御霊(魂)の謎

 (万葉集に歌われる死者と交流する日本人の霊(魂) 
  


 吾が主のみたま賜ひて春さらば奈良の都に召上げ給はね  山上憶良  (万5、八八二)

 天地の 神相うづなひ すめろぎの 御霊助けて 遠き代に なかりしことを 朕が御世に 現はしてあれば 

 「すめろぎの 御霊助けて」は、歴代の天皇の霊力が聖武天皇を助けて、黄金を産出させたという意味で、憶良の歌の「みたま賜ひて」と同じ観念である。

 稲の魂を「倉稲魂(うかのみたま)」といい、それを神格化したのが「倉稲魂命」(「神代紀」上、第五段一書の六)であり、剣も「布都御魂」(『古事記』神武東征条)と呼ばれ、社に祭られて「石上坐布都御魂神社」(『延喜式』


 
 古代日本人は、あらゆるものに神が宿ると考えていたと思われる。自然宗教に分類されるアニミズムは、物体に生気と動きを与えるのは精霊だと考え、死とは霊魂が永遠に身体を離れ、宿るべき身体を失った状態である。 死によって、魂の抜けた身体は、魔ものが入るとして、危険視されていた。危険を回避し、魂をあの世 に送ることができるのは儀礼であり、とりわけ、あの世からこの世へと再びよみがえるという生の再生のためにも、死者儀礼は重要な意味をもっていた。

 日本語の言葉には日本人の心が精神が宿っている、その日本人の言葉が活きていたのが奈良時代であり万葉集となり結実した
人間であれば言葉は重要である、言葉なくして人間でありえない、だからどこの民族でも言葉はあった、ただ文字は文明の基となったように高度なものである
だから日本には文字がなく漢字を取り入れたのである
その時一段上の文明が中国にあったからだ、その文字さえ何か最初発明した時は神秘的なものでありそれでヒエログリフのように神聖文字となった
それはアジアでもインドで経文となったように同じである
高度な文字の体系ができた地域が最先端の文明が起きた場所であったことでもそれを証明している

日本人とは何かというときやはり日本語から知らねばならない、それで本居宣長が大和言葉と唐言葉を分離して日本人の心を魂を知らしめたのである
日本語の中に古語の中に日本人が尊んだものがあり言葉に化石のように残されているのである
現代はもう言葉は数字なのか化学式なのか神秘的なものではなくなった
でも依然として人間が言葉をもつことは動物とも植物とも違っているのだ
それで言霊信仰になる、何かしら口から発した言葉が自分にも他人も影響するからだ
憎む言葉を発せればやはりその言葉を実際恐ろしいものとなる
人は実際に人を殺す前に言葉で殺している、心の中で殺している、その心が言葉となって現れるから怖いのである
人間のみが心と言葉が一体化しているからである

万葉集は日本語の原初の呪術的なものが残されている
だから日本人の心を知るには万葉集を知らなければわからないのである
いわば日本人の聖典のようになっているのが万葉集なのである
でも万葉集は解き明かされていない、それはなぜかというと古代の原始的心性というべきものが理解できなくなっているからだ
そんなもの科学の時代に迷信的だとかなるが何か第一人間の心は依然として不可思議であり解明されない、心だけはどんなに科学が発達しても解明されないと思う
どんな機械でも人間の心を見ることはできないのである

日本語だと霊、玉というのが心になる、日本人は心を玉と言っていた
魂(たましい)でもそうである

たまきはる、たまかぎる 玉櫛笥 玉衣(たまきぬ)、玉垂の、玉梓(たまづさ)のたまぼこの

玉として美的に詩的に表現されている、

魂(たま)合はば相(あひ)寝むものを小山田(をやまだ)の鹿猪田(ししだ)禁(も)るごと母し守(も)らすも    作者不詳 万葉集巻十二

「空蝉のからは木ごとにとどむれど魂のゆくへを見ぬぞかなしき」〈古今・物名〉

直接は合わなかったけど魂(たま)は合ったとなる、魂は心は通じたとなる

吾が主のみたま賜ひて・・・普通だったら物を賜る(たまわる)であるがみたまを賜るというのが現代では理解しかねるのである
日本人の心が何か?何を重要視したかをこうした日本語から知るべきである
賜るというのが今なら物を賜ることなのである、それが魂を賜るということがまるで違った世界に住んでいたのである
人間は今や物の中に生きている、毎日が物に追われている、そこで心はかえって失われてしまったのである
物がない万葉時代にはかえって魂は生きていたのである

というのは神道には経典がないからこそ日本語とか万葉集から日本人の心を魂に通じるべきだとなる
魂が合うというとき合わなくても魂は通じる、心は通じるということである
そしてやはり現代でもこういうことは不思議に起きて来る
会いたいと心で想う人にまた出会い合うとなる

そしてまた人間は死んで骨となり灰となり全くその姿が消失する、でも本当にすべてが消失したのではない、依然として何かがある、魂(たま)が消えずにこの世にあり生者とともにある、また死んだ人を迎えるその魂を迎える送り火とかがお盆にある
死んだ人の魂は家にお盆に来る、そういうことは理屈ではない、まさに魂で感じるものなのである
何かもう60年も一緒に暮らした人は死んでいない、でも本当にいないのだろうかとなると何か家にいて近くにいるという感じがするときがある
それは家族だけではない、別に親しくもなかったけど隣の女性が突然死んだ時は驚いた
だから何か死んだばかりだと依然としてそこにいてこっちを見ているような感覚になるのだ 

ましてや60年も一緒に生活していたら死んで簡単にすべてが消えるとはならないだろうだから人間の一番の不思議は死ぬことである、肉体も消えてなにもなくなることである
その変化はあまりにも大きいからとまどうのである
そして死者はどこに行ったのかと常に思うようになるのである
それで折口信夫は恋とは乞うことであり死者を乞うことだということは家族が全部死んでそのことがそうなのかと思うようになった
なぜそうなるのかというと死者とは二度と会えないからである
そうなるともう一度でもいいから会わせてくれと乞うことになるからだ
万葉集はなにかすべて恋愛の歌のように読むと浅薄なものになる
もし死者を乞う歌だとなれば深刻になるのである                                      

「空蝉のからは木ごとにとどむれど魂のゆくへを見ぬぞかなしき」〈古今・物名〉

この歌でも蝉の殻が残されて人は死んでしまった、何もない、その魂はどこに行ったのだろうとなる、死んだ人はそもそもどこに行ってしまったのだろうか?
全く何もなくなってしまったのだろうか?
人間はそういうふうに思えないのである、まだ何かがある、それは見えないが何かがあるそれが魂をもった人間だとなる、動物とは違うからである

日本の信仰では、霊魂が人間の体に入る前に、中宿ナカヤドとして色々な物質に寓ると考へられてゐます。其代表的なものは石で、その中で、皆の人が承認するのは、神の姿に似てゐるとか、特殊な美しさ・色彩・形状を具へてゐるとか言ふ特徴のある物です
(折口信夫)

死んだ人の魂は消えるのではない、依然として未練がありこの世をさまよっている
それで祟りの霊ともなるから魂を鎮めるとして祈ったりした
死者に祟れることを日本人は相当に恐れたのである
それから魂が何か自然のものに宿るとした、玉とはその人間の魂が宿ったものとして表現されたのである

ともかく現代とはもう物質文明であり機械文明であり大衆文明でありそこに人間の魂は消失したようになっている、蝉の殻のようになっている
そしてその彷徨う魂の宿る自然も大都会にはないのである
墓にしても団地のように狭い空間に魂は押し込まれているのである
人は死んで骨となり灰となり海にまいたりも今はしている
ただそういうことをしても魂は別なのである、なぜなら魂とは目に見えないものだからである、それで魂合うというときそれは離れていても合うということになる

現代文明とは人間の本来の魂を否定した消失した文明である、だから古代人は現代文明人からしたら遅れたものであり野蛮人なのだとみる
ところが魂から精神から心からみればなにかかえって現代文明人の方が野蛮なのである
たましいが失っている、無数の物質に囲まれていて肝心の魂が失われている
物(もの)というとき物と心は一つのものだった、物に魂が宿るのである
それが西洋的思想と東洋的思想の相違である
西洋的思想では人間の心と精神は分離してみる、日本語では物は心でもある
物には心があり心が宿り魂が宿る
物と心は一体なのである、現代文明は物と心が分離しているからそこで物が豊かでも心は貧しい、病的なものになっているのだ 

つまり現代文明は魂から心から見れば病んでいるし一つの病的なものとなっているのだ
それかカルト教団だとかナチスを産んだのである
現代文明は心の面から魂の面からみれば異常であり狂気的なのである
それゆえに万葉集とか古代の人にかえって学ぶとなるのである
人間の関係でもそれは商品交換のためにあるのではない、物の交換のためにあるのではない、心を通じ合う、魂合うということが人間の人間たるゆえんなのである
グロ−バル経済とかなるともう商品のみがあり物だけがあり心は決して通じ合うことはない、そこに異常性が生まれる、なぜ戦争になるのか?
物と心が実際は分離しているからである
世界自由市場などは株式の世界で作られたものである、数パーセントの人に世界の富が吸い上げられている博打場だというときそうである
物と心は分離している、そこに紙幣とか貨幣が媒介して人間の魂も心も魂合うものとはならないんのである、魂離れになってしまうのである

うつそみの人なるわれや明日よりは二上山をいろせとわが見む

万葉巻二に、大津皇子の亡骸を、葛城の二上山に移葬し奉った時、大伯皇女の御歌二首と詞書きのある第一首目の歌(165)である。 

山を人間としてみている、これは西洋ではなかなかないだろう、ただ自然でも擬人化することはある
確かなことは自然に人間の魂が宿るこということなのである
山は大きいからなかなかそうなりにくい、でも二上山は比較的低いやまだから人間化されたとなる

 我が母の亡き魂宿らむ石なれや影なし涼し今日もありなむ

 我が家に嫁ぎてあわれ百歳を生きて死ににき霊宿る石

 我が母の目ただずありぬ歳月や亡き魂石に宿り鎮まる  

 我が家の庭に静まるその石に母の魂宿り虫の声聞く

死者の魂は石に宿る、私は石をテーマにしてきたから石が心となる、魂となり宿るとなる人間が生きて死ぬ、でも人間の肉体は消えても何か依然として残っている
それで人間が生きた所には伝説となり石でも人間を語るのである
それがまさに人間らしいのである、それで例えば原発事故の避難区域になった町や村ではもぬけの殻のようになった、蝉の殻だけが残っているという感じになった
古い空家などがそうである、そこには人は住んでいても老人だけである
すると死んだ町、村になる、ここで考えるべきは実は死者の魂が生きている
それがそこに人が住まなくなると幽鬼となり彷徨うなるから不気味なのもとなる
そこに生活して生者がいるとき死者の魂もともにいる感じになるからだ

そして死者の魂は石とかに宿り依然としているとなる
伝説の石となり村で語られて生き続けるのである、奈良では万葉集の歌われた場所が残っていて偲ぶことができるのである
それは1300年前のことなのである
でも依然としてそうした大昔でもその場所から偲ぶことができるのである
死者は語られることによって生き続けているのである
これは日本人的死生観であり神道なのかとなる、また日本人の文化なのだともなる
ただこれはキリスト教であれ仏教であれイスラム教であれユニバーサルなものになりにくいのである
第一砂漠のような所に住んでいるとき、魂でも石すらなく宿るものがないのである
だから
だから魂は天に昇るとなってしまうのである、ただ本当の神は砂漠に住んでいたのであるそこは汚れない場所だったからである、水で禊したとしても水も汚れるからである
砂だと水のように濁ることもないからだとなる
そこを絶対的空間として神が存在したとなる、そこではとても山を人間などと見えないからである、だから日本の自然は親和的であったというのが違っていたのである





posted by 天華 at 22:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 万葉集
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