2020年09月25日

人生も歴史も無念を語る (すべての人が無念で終わるー死があるから)


人生も歴史も無念を語る

(すべての人が無念で終わるー死があるから)

歴史とは何なのだろうと思う、人間の罪の歴史だという人もいる、戦争の歴史だからそうともなる、ただわかりやすいのは歴史は無念の歴史であり無念の集積の歴史である
その無念が怨念ともなる、権力闘争に敗れたり戦争で殺された人が無数にいるからだ
それで日本がの神社は怨念を恐れて祟りを恐れて祀ったというのもわかる
それだけ非業の死とか無念に死んだ人が多いのである
日本だって太平洋戦争で三百万人死んだとかある、それら無念の死であるから靖国神社がある、やすらかに眠ってくださいとなり神社があるからだ
無念を怨念を鎮める神社だともなるからだ

無念という時第一すべての人間は無念に終る、無念というときいろいろある、貧乏で苦しんで無念に死ぬというのが継続してある
また病気とか不慮の事故とかで死ぬのは今でもある、身内でも40才で交通事故で死んだそして病気で死ぬ人も無念になる、特に若い人が死ぬのは無念である
戦前までは肺結核で若くして死んだからそういう人たちは無念を残して死んだのである
母の実家には25歳で肺結核で死んだ人がいた、何かそれでキリスト教に入ったのかもしれない、啄木も肺結核で無念の死となった
いづれにしろ無念の死は数限りなくある

いづれにしろ人間はみんな無念で死ぬ、それはどんな人でもそうである、例えば大金持ちでも地位を得た人であれ美人であれ無念に死ぬ
それはなぜなのか?結局人間はすべて死ぬということにある
人間は誰一人として死からまねがれない、つまり死にたくないのである
すると死ぬことは無念だとなる、死に関しては平等である、どんな金持ちでも地位があっても死からまねがれないからだ、また誰でも男女でも老いる
すると美人でもしわくちゃのばあちゃんになる、それを見た時まるで別人になってしまう
とにかくみんな無念だとして死んでゆく、姉は死んだ「俺は優秀だった」と言って死んだ優秀だったことはわかるが認知症になってそのために馬鹿になったということでそれが悔しくて最後にそう言ったのかもしれない、ただ個々の人生をみればみんな無念に死ぬ
病気になるも無念であり人間には何かそうして無念にさせるものがいくらでもある
かなえられなものがいくらでもあり死んでゆく
私はこうしたかったああしたかったとか後悔して死んでゆく
まず老人になって後悔しない者はいないのである
どんな人生を送っても後悔しない人はいない、何か足りないものがある

後悔しない人生を送れといってもではみんなそうできるのか?
自分を社畜だとか奴隷だとか言っていやいや会社勤めしている人は老人になり後悔する
もっとやりたいことをやっているべきだったとかなる
別に自由に自分のように生きても後悔がある、社会性を身につけるために働くべきだったとなるしまた留学すべきだとかもっと海外旅行すべきだったとかある
特にヒマラヤは一回で終わったからもっと行くべきだった
なぜなら十回も行った人がいたからである
そんなに行けたのかというのが意外だったからである、それはトレッキングコースを行っていたのだから必ずしも登頂するとかではない、ヒマラヤは見るだけでいいともなる

人間の歴史自体数限りない無念の死で埋まっている、非業の死もいくらでもある
第一戦争では日本人だけではない、何千万人とか死んだとかなる
他にも権力闘争は必ずありカンボジアとかでも骸骨が積まれた記念館がある
それも非業の死だった、歴史はそうした人間の過ちの無念の記録だともなる
自然災害の死もある、津波で死んだ人たちも非業の死だとなるし原発事故の被災者も故郷に住めなくなったのだから故郷を離れて死ぬから無念だとなる

無念だというとき一番多いのは貧乏のために願いがかなえられないことが一番多いかもしれない、そもそも学校にすら行けない国もある、ネパールなどはボールペンとかすらないつまり文房具すら用意できないのだからどうして教育ができるのかとなる
世界ではまだそうした貧困な国がある
そういう場所では学校に行くことすらかなえられない、また裕福な国では学校嫌いになり行きたくないともなる、自分自身がそうだった、それは貧困な国になれば贅沢だとはなる私の父親はさしみが食いるようになったが病気で食いたくないとして死んだ
何か食べ物に関してもまともに食べらない無念があった
食べ物の恨みは怖いということにもなる

ただこうした様々な人間の無念も豊かになったり科学技術が発展して解消することがある肺結核は伝染病とわかりかからなくなったから肺結核で無念で死ぬ人はいない
他のウィルスでもワクチンができてかからなくなったから病気で無念で死ぬことはかなり減ったのである、教育でもゆきわたるようになったからそれで無念だということもない
様々なものが改善されて無念で終わることがなくなってはきた
でも人間はどんなことをしても無念で終わる
何か無念を残さないで死ぬ人はいないのである
何か無念だとして死んでゆく、動物さえ犬さえ最後は吠え続けて死んだ、それは最後の断末魔で死にたくない死にたくないと叫んで死んだように思う
つまり人間は死ぬから無念なのである

すると死ぬかぎり無念は解消しないのである、その死から解放するのが信仰になる
死ななくならない限りそれがありえないからだ、死ぬということはみんな無念だとなるからだ、死なない命を与えられない限り無念はなくならないのだ
永遠の命が与えられない限り人間の無念はなくならないのだ
確かにキリストは十字架で無念に死んだけど蘇ったのだからそれで無念は解消されたからだ
人間の無念は結局死ぬことにある、だからどんな人も無念に死ぬのである
いろいろ無念があっても死の問題を解消しないかぎり人間から無念はなくならいのである要するに神の国に行く他、無念を解消する方法はないのである
この世に生きることは結局誰でも死ぬから無念に終わるのである
この世でどんなに恵まれても死ぬときは無念になる
ありあまるほどの富を貯えても病気になって寝た切りになったらその富は何の役にもたたなくなる、ただ天井を見ているだけになる、これも無念だとなるからだ

ただこうした人間の無念が歴史だという時、その無念を知るべきだとなる
そして今の恵まれたことに感謝すべきだとはなる
先人の努力の積み重ねで様々な無念も解消してきたからである
歴史にはいろいろな見方がある、歴史の見方として後世に何をもたらしたかを見ることも大事になる、科学技術でも伝染病を治したということは病気で死ぬ無念をなくしたとなるからわかりやすい、また貧困をなくしたということもわかりやすい
これらが一番わかりやすい、他にも無念をなくしたことがある

自分に関しては家族に恵まれて自由に生きることができたから社畜なんだとかならなかった、ただそれでも後悔は残る、別に社畜だからとそれか全部マイナスにはならないからだ、まず引きこもりとかニートとか何か欠けるようになる
また結婚しないとか子供もたないとかも何か人間的に欠けた人となる
ただ正直あらゆることをすることは人間はできない、芸術家の8割が独身だったということがそれを証明している、何か家族をもったらそれに費やすエネルギーが膨大になり何か考えることもできなくなる、今家事を全部していただけで自分は感じたからである
家事は相当な労力であり疲れることを介護でも一人になっても知ったからである

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