双葉町を十年ぶりにたずねるーその歴史から(1)
(私の父親が酒屋で働いていた)
明治4年7月14日(新暦 : 1871年8月29日) - 廃藩置県により中村県が成立する。
明治4年11月29日(新暦 : 1872年1月9日) - 中村県と平県が合併されて磐前県が成立し、現在の双葉町域は同県に属する。
1876年(明治9年)8月21日 - 磐前県・福島県・若松県が合併し、現在の福島県が成立し、現在の双葉町域は同県に属する。
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行にともない、標葉郡新山村(しんざんむら)と長塚村が発足する。
1896年(明治29年)4月1日 - 標葉郡が楢葉郡と合併し、双葉郡となる。
1898年(明治31年)8月23日 - 常磐線長塚駅(現在の双葉駅)が開業する。
1913年(大正2年)2月1日 - 新山村が町制施行して新山町(し
双葉町は、標葉(しねはorしぬは)と楢葉(ならは)の二つの葉がある。
この周辺には古墳が非常に多く、夫沢横穴古墳の長者原の地名、
標葉郷夫沢村は相馬中村藩領。
地名としての「広野」は天正10年(1582年)の藩主 岩城常隆の時「北迫村に広野立つ」とあるのが初見とされていますが、江戸時代の初期ここに相馬路(南方の岩城平から北方の相馬中村までの浜街道)の宿駅「広野宿」が設けられ、「広野」の名称が使われております。
「浜街道」の名称はすでに8世紀初頭「道(陸)の奥」の国府 多賀城に通じる官道「海道」として敷かれていたことに始まります。
「続日本紀」の養老3年(719年)の条には「石城国始めて駅家一十処を置く」とあり、その一処がこの地に置かれた可能性も考えられます。
双葉町の歴史は相馬藩からみると夜の森がある、夜の森とは夜は余のことだった
相馬藩の殿様が余の森と言ったからである
この辺は森で覆われていて磐城藩との境目であった
それで領地争いがあり、小良ヶ浜(おらがはま)というのも俺の浜だという意味であり境目だから起きたことである
双葉町は古代からの歴史があり末続(すえつぐ)が須恵、陶(すえ)から由来していて
島根県の出雲に末次(末継)の元があり渡来人が来た道でもある
前にも考察したように韓国の伽耶国のツノガノアラシトが鉄を求めて砂鉄を求めて来た道でもある、だから必ず諏訪神社が東北に多い、蝦夷といわれたとき出雲のことだったということでもそうである、そして島根県とかの方言のズーズー弁が東北のズーズー弁とにているというときそこに深い関係があった、つまり蝦夷というとき出雲と深く関係していたのである、だから出雲と古代は関係ずけられる
そのあと戦国時代になると相馬藩(中村藩)と磐城藩で争いがあった
その境目になっていたのが双葉郡になる、争っていても磐城藩内から相馬藩に移る人もいた、不思議なのは久ノ浜の大久川という地名である
南相馬市に大久氏とか大悲山(だいひさ)という姓がありこれの由来はここから来ているのだろうか?
なぜなら姓の発祥地は地名であり村に由来しているからである
末続(すえづき)は墓地の八割が新妻の姓だった、新妻氏の子孫だとなる、それは磐城藩から移り住んだともなる
要するにここは江戸時代に境界でありそれを知る必要がある
それと双葉郡はもともと新山村と長塚村がありそこが宿場となっていた
なぜ二つの村が宿場となったかというとそれは村で中村藩の人を迎えるのに負担になったから分担したのである、宿場とは村の人にとって負担になっていたのである
常磐線が通った時、双葉駅はなかった、長塚駅だったのである
この双葉町と私の父親と深い縁があった、なぜなら私の父親は葛尾村(かつろう)から新山の酒屋で丁稚として働いていたのである
今の富沢酒屋店との隣にあった酒屋だったのである
富沢酒屋店には古い煉瓦の煙突があり相当に古いことがわかる
明治時代からもあったのかもしれない、酒屋はたいがい古い、酒屋で働く人が多かったからである
そこで私の姉が良く銀行のことを言っていた、子供の時、父親の酒屋に行き銀行がありそこで遊んだとか言っていた、その当時銀行があることはめずらしいことだったのである
だからそういう話を聞いたから人間はそれで思い入れが生まれる
とにかく私の父親は葛尾村から出て双葉の新山で働き暖簾分けして鹿島町に来たとなる
また母親は原町で警察署長していたが警察だから転勤していた
それで名前はトミ子なのだがそのトミは富岡と関係あるらしい、つまり富岡で生まれたからだとか言っていた、姉はハマ子と名付けられた、浜は磐城か小名浜で生まれたからだという、その土地に生まれたのでそう名付けられた
これも昔となり私の家族はみんな死んでしまった
こうして双葉町とは縁がある、やはり相馬藩内縁戚関係がある
葛尾村でも双葉町でも浪江町でもそうである、新地町とも関係がある
なぜなら私の父親の前の妻は新地の人だったからである、今も私の墓に眠っているからだだから相馬藩内に関係していたのである
昔は近くの人と結婚することが多いから縁戚関係になっているのが多かったのである
ともかく町がゴーストタウンになるとこうした歴史とか思い出が消失してしまう
それは古い歴史だけではない、何かそこで培われた思い出が消失する
そして老人になるとわかるがみんな親でも死んでしまう、すると後に残るのは思い出だけなのである
それで私は一人になり延々と家族のこと家のことを思い出して短歌とかにしている
家に愛着がある、それはどこでも同じなのである
家の愛着はみんなある、そこで暮らした思い出がありその思い出はその土地と深く結びついているのである、だから家がなくなるとまた街全体がゴーストタウンになるとそうした思い出が失われる、それが大きな損失となっていたのである
老人は思い出に生きる、それで老人は帰りたいとなるのである
要するに思い出がしみこんだ町が故郷になるからである
とにかくまるでそこは映画のロケのセットのようになった場所だった、それで写真をとりに来る人が多い、つまり前も小高などでそうだったがそういうことが継続している
興味半分で廃墟の街を見に来ているのである
新山橋
昭和22年に作られた、戦争が終わり私の生まれた年だった
この橋の近くの富沢酒店の隣に私の父親が働いた酒屋があった
でも戦前に倒産してなくなった
それで不思議だったのは出会い橋という石の橋だった、作られた年代も書いてあり
水が流れてひびいていた、でももうここには出会いがなくなった
なんともわびしいとなる、ただ興味本位で見に来る人は多い、こういう街全体が廃墟化したのはなかなかないからである
でも現実は貴重な歴史でも思い出でも失われたことを知るべきである
石の橋出会い橋かな流る水ひびくも逢わじ秋の日暮れぬ
ここで出会ったが今や逢わない、鹿島の落合橋のことをプログで書いたが何か橋というのは人が出会う場所なのである、ここで人が出会っていたのである
石の橋は新山橋であり出会い橋と名付けた橋は元からあったのではなく何か勝手に出会うからと名付けた
ただ川としては小さい、でも水が結構流れていた、雨が降ったからだろう
自然でも人間が住まないと活きてこないことがある、つまり人間化した自然としてあるからそうなる
我が父の新山働く酒屋あり故ある地や秋の日暮れぬ
我が父の酒屋に働く双葉町姉は語りぬ虫のなくかな
私は姉と母と60年住んでいたから忘れられないのである、だから延々と書いているのである、その思い出に連なるものとして双葉町があった
でも双葉町という名前ではない、長塚と新山という名前に親しみかある
何か地名というのは思い出として記憶として心にすりこまれる
双葉町となったときそういう記憶が失われるのである、ここに合併とかで失われた地名の問題があった
人間の記憶が長い年月で作られる、そういう人が生きた記憶が歴史でもある
それで老人は故郷に帰りたいとなるのである
その喪失は思った以上に大きなものなのである
つまりそうした記憶が貴重なのはそれこそ生きたことの証だからである
そういう記憶がもう作れない、あとは死ぬだけになってしまったからである
記憶こそが生きた証(あかし)になっているから姉は認知症になっても昔のことを語りつづけたのである
私の家族が死んだとき本当に悲しかった、でも今になるとだんだん記憶がうすれ歴史と化してゆく、その自分の家の歴史に連なるものとして双葉町があった
やはり親までは深く継続した歴史というのではなく生々しい記憶として残っている
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